(349)往来物(おうらいもの) | 江戸老人のブログ

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(349)往来物(おうらいもの)

  

 ハチ公のところへ手紙が届く。ハチ公は字が読めないので、兄貴分の所へ手紙を持ってゆき、読んでくれと頼む。困ったのは兄貴分で、ハチ公の手前、読めないとはいえないから、あてずっぽうで読み始める。落語の『手紙無筆』を聴くと、江戸時代でも字が読めないのは恥ずかしいことだったとわかる。

 

 手紙は古代からあるものだが、農民を含む庶民も広く手紙を書くようになるのは、やはり江戸時代からだろう。江戸時代に手紙のやり取りが盛んになった理由として、真っ先に挙げるべきものが「往来物(おうらいもの)」といわれる子供の教科書だ。

 

 「往来」とは、往復書簡のことである。読み書きを教える教科書が、手紙文の体裁でできていたのだ。つまり江戸時代では、手紙を書けてこそ大人、と考えられていたことになる。言葉を知っていて、挨拶の仕方をわきまえ、四季の変化を表現し、用件をわかりやすく簡潔に文章化できる。それが社会的コミュニケーションに必須の能力だった。この能力を子供の頃から身につけていたので、庶民は気軽に手紙をやり取りできた。


手紙の文体が教科書だった
 そもそも手紙は、漢字漢文が使われるようになった一世紀ごろにはあったはずだ。しかしそのころに文字を自由に使えたのは、限られた人だった。五世紀頃になると、日本語の音を漢字で表記する万葉仮名(まんようがな)ができた。八世紀ごろには膨大な数の万葉仮名が使われ、『万葉集』にも手紙を添えた和歌が見られる。まだ、漢字のみの表記である。

 

 九世紀の前半になると万葉仮名を簡略化した片仮名が現れ、後半には平仮名が定着する。この平仮名の出現こそが、手紙メディア拡大の第一歩だったのだ。

 

 935年頃に、紀貫之(きのつらゆき)が平仮名だけを使って『土佐日記』と書いた。これは貴族の子弟たちのための文章教科書ではなかったのか、といわれている。11世紀になると藤原明衡(あきひら)によって手紙の文例集『明衡往来:めいごう・おうらい』が書かれた。これが往来物の始まりである。
 

 日記は勿論として、手紙の普及にも平仮名は欠かせないものだった。その後、「侍る(はべる)」「候(そうろう)」などの文体、季節の挨拶、贈答品を添えることなどが行われた。もちろん日付、差出人、宛名という体裁も整ってくる。鎌倉時代以降には、偽の手紙を防ぐために、花押(かおう・今でいうサイン)も発明されていた。


 その間、往来物は鎌倉初期に『十二月往来』、鎌倉中期に『雑筆往来(ぞうひつおうらい)』、南北朝から室町時代には『庭訓往来』、など次々に登場する。いずれも行事などを含めた日常生活に必要な様々なことについて、手紙文の体裁で書かれている。

 

 寺子屋(手習い)で学ぶ人が全階層に拡大する江戸時代になると、往来物の数は数百種にのぼった。『農業往来』『百姓往来』など農業用語を入れたものや、『商売往来』『問屋往来』など、商業の基本用語を入れたものもあった。印刷物以外にも、教師自身の手書きによるお手本もあった。

 

 手書きの文字にはそれぞれ癖がある。崩し方がわからないと読めない。だが江戸時代に入ると、字体は統一され、本も教科書もその字体で印刷された。往来物で勉強すれば、どんな人の文字も読めるようになり、人に読んでもらえる字を書けるようになった。



引用本:『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』田中優子著 小学館101新書