(305)『石版東京図絵』
昭和二十年代、三十年代、いつまでだったかは忘れしまったが、確かに“汚わいぶね”が船体の半分ほどを神田川に沈めてじっとしていた。そのうちタグボートに引かれ、東京湾の方へとゆっくりと進んで見えなくなった。いまは地下鉄が突然顔を出し、水面すれすれの鉄橋を渡り、また地下へと潜りこむ、あの方向だ。御茶ノ水駅のプラットホームの反対側に東京都清掃局の作業場があった。
小学校低学年の頃、亡父に連れられ、お茶の水駅の濠川を見下ろしていた記憶がある。霧雨が降っていて全体が煙の中のように霞んでいた。水量が豊かなのだろうが、あのあたりは深い濠といった方がいい。切ないような懐かしさを感じる。
徳川家康が、伊達政宗に命じ、神田山を崩して濠を通し、残土で江戸城周辺や銀座などを埋め立てたとある。御茶ノ水の地名の由来は、ここでの湧き水を、日々の茶に使ったからとの説は、時期が合わないようで、徳川秀忠からではないか、ともいわれ良く分かっていないらしい。山を崩したから平地ができ、大久保彦左衛門はじめ駿河からの家臣を此処に住まわせ、誰からともなく[駿河台]と呼んだとある。
戦後まもなくの頃、ホームの向こうの土手の斜面には、上下左右にたくさんの人々の小さな小屋ともいえないような、まことに小さな廃材の箱のようなものが連なっていた。ここは獅子文六氏の小説『自由学校』に登場し、この話は映画化もされた。聖橋がすぐ上を跨ぎ、この下だと風雨が防げて都合がいいから競争が激しかったのではなかろうか。
調べてみると、湯島聖堂とニコライ堂をつなぐ橋だから聖と聖で、聖橋と名づけたらしい。昭和二年に完成している。ニコライ堂は司馬遼太郎氏の小説『菜の花の沖』の主人公、高田屋嘉兵衛をしたって、日本まで追ってきたロシアの神学生イオアン・カサートキン(ニコライは修道名)氏は、嘉兵衛とは生きているときは遭えず、せめてもとロシア正教(正式名称は違うらしい)の教会を建立したと司馬遼太郎氏が書いているが真偽はわからない。関東大震災で壊滅したが、これを修復して1962年に国指定重要文化財となった。
私淑する小説家に故永井龍男氏がいて、殆どの作品には眼を通したと想う。『石版東京図絵』に、神田近くの主として子供たちの様子が詳しく描かれている。
永井龍男は明治37年(1904年)、日露戦争勃発の年に神田区猿楽町一丁目で生まれた。錦華小学校が建築中だったから小川尋常小学校に間借りして二部授業を受けたが、大正二年、竣工した新校舎が四ヶ月で焼失、再び一ツ橋高等小学校に間借りして二部授業を受けたという。神田はそれほど大火が多かった。
住居は駿河台下の勧工場、東明館のすぐ傍だったというが、この辺りは東京の下町と山の手の境目だったという。勧工場というのは、サザエの殻を伏せて、大きくレンガ造りにした建物といったらいいらしいが、良く分からない。入り口から展示を見て行くと、いつの間にか元の入り口に戻ったという。小規模な工業製品の展示販売場が目的だったらしい。
いずれにせよ、小説『東京活版図絵』には、私たちよりずっと昔の神田界隈の様子が活き活きと描かれている。東京市の路面電車には二つの会社があったとか、東明館の前を、ちょっと駿河台へ上がる右側に美しい少女が給仕してウーロン茶を飲ませる店もあり、その一、二軒先が基督教中央福音伝道会で、毎夜六、七時頃には、二つほどの大提灯を先頭に勢揃いして、小川町から五十稲荷の縁日を抜け、神保町の夜店通りを九段下あたりまで、大太鼓を敲いて練って歩いたものだ、と書かれている。
ずんずんと打ち響く救世軍の大太鼓の遠音が交錯し、賑やかさを慕う子供心をかきむしったものだ、と続く。十二月に入ると、日曜学校に通う悪童たちの数が急に増える。当然、クリスマスの贈り物が目当てだった。神田川の北側には官学が多く、南側は私学・実学の学校が多かったという。
駿河台坂の途中には、病院が多く、またニコライ堂関係者か、外国の婦人が下宿している家があったが、産毛が濃くて髭のようだったとか、牛乳を頼んでいる患者も多かったせいか、牛乳配達の小僧さんが多く小説にも登場するが、当時の牛乳は白い陶器に入っていた。学生がしばしば使うミルクホールがあって、官報が置いてあり試験の結果が掲載されていたという。ニコライ堂には付属の神学校があり、中国からの留学生も多く、他の小説だが、親しい一人と満州で再会したりもしている。
賑やかなのは招魂社の秋季大祭で、神田の町全体まで賑わいが伝わってくる。そのまま引用してみると、
九段に上るあたりから、両側にぎっしり屋台店が並び、食べ物からおもちゃまで、なんでも売ってないものはなかった。いり立て豆腐屋は、プスンプスン豆のはじける音をさせながら、よくおこった火の上で網作りの籠をゆすっていたし、金太郎飴屋はチョンチョン端から、“のみ”を使って飴をかいているに違いない。上りも下りも、後から後から参拝客の途絶える時はなく、その人達の頭の上を吹きまわるのは、曲馬団の楽隊を乗せた風である。
そうかと思うと、ほら貝や大太鼓や、釣り鐘の音が、楽隊の「天然の美」にまじって、荒々しく砂ほこりを巻いて聞こえてくる。現在は靖国神社と名称が変わったが、当時は招魂社として近隣の人々、特に子供たちを夢中にさせた。
神保町の子供たちはずいぶん遠くまで遊びに行く。神田明神や湯島天神はおろか、同級生と日比谷公園まで出かけて芝生で相撲をとり、大人の見物に囲まれて得意になったこともあるし、駿河台下の十文字に近い停留所で電車の切符を拾い、上野の池之端まで往きは歩き、夕方その切符で戻ってきて、お袋には知らぬ顔でいたこともある、などと記されている。
御茶ノ水橋を渡って、湯島の聖堂まで行かぬ河岸に、貸舟屋がある。一時間三銭か五銭の借り賃を子供同士で出し合って、見よう見真似で櫓をこぎ、神田川に幾つかかかった橋をくぐって大川まで出るが、子供たちの家では何も知らない。
浅草橋から大川に出たとたんに、一銭蒸気のうねりをくらって、櫓が役に立たず、大あわてにあわてたことなど、どこの親も想像すらしなかった。
子供たちは何時の時代も、悪戯ばかりだが、確か永井龍男氏は、自分が幼い頃は「神田川で泳いだ」と書いておられたと記憶していて、本棚を調べたが、そのような記述はなかった。私の記憶違いか、あるいは捜し方が悪いのかも知れない。
駿河台には坂の上ホテルなどがあり、この辺りは見知っている。出版社が多く著名な作家たちがここで仕事をした。食通の池波正太郎氏は、このホテルでの天麩羅が絶品と書いておられた。
そういえば、永井龍男氏は病弱で、高等小学校を卒業すると兄の勤務する株関係の会社に勤めたが、すぐに肺結核を発病して辞めている。子供の頃、運よく懸賞小説で菊池寛氏に認められ、その後、文藝春秋社員となった。『オール読み物』を発刊し、芥川賞・直木賞の開設に関わり、「満州文藝春秋社」にも関係した。戦後の追放令で、やむなく作家となった。
話が違うが、鬼兵犯科帳の池波正太郎氏も浅草で生まれ、同じような年頃に株取引関係に務めたことがある。チャキチャキの江戸っ子と株の取引は、少年たちに文才を与えるものかと、新しい発見をしたような気になった。
以上
