(320)御庭番の仕事 | 江戸老人のブログ

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(320)御庭番の仕事
 
将軍の指示をける監察組織[御庭番]
 江戸幕府の公式な監察(調査)制度は、目付けとその配下の徒目付け(かちめつけ)、小人(こびと)目付けがあった。そして、もうひとつの組織が[御庭番]だった。目付けは老中の指示を受けて動くのに対し、[御庭番]は将軍の指示を受けて動く。
 

 紀州家では「薬込役」が前身であり、薬とは火薬のこと、八代将軍吉宗が、自分が使う鉄砲に火薬を込めるのが「薬込役」だった。
 吉宗は将軍となると、これらの人々を幕臣に加えた。みな身分の低い者だった。彼らの子孫が[御庭番家筋]となった。
 

 御庭番は表向きはともかく、江戸城の中奥で、将軍や、側近の御側御用取次から直接命令を受ける。この仕事は世襲であり、隠密御用へは経験を積んだものが命じられた。将軍の居間に面した庭に御駕籠台というものがあり、将軍は外へ出るときは、ここから駕籠に乗るが、そこに御庭番が出頭し、将軍から直接「隠密御用」を命じられた。


秘密裏に不正を調査する内偵
「隠密御用」とは、内偵のこと。幕府役人が不正を行っていないかどうかを調査した。時には地方へ派遣され、諸大名の政治のあり方、評判などを調査した。
 天明七年(1787)五月、江戸で大規模な打ちこわしがあった。米価高騰に憤激した江戸の下層民が、売り惜しみする米穀商などの屋敷を破壊してまわった大事件だった。この民衆の蜂起により、幕政の中心から田沼意次派が一掃され、白河藩主で徳川吉宗の孫だった松平定信が老中首座に就任する政治改革がなされた。
 
 この天明の打ちこわしのとき、御庭番は、江戸中を探索し、多くの情報を将軍に報告した。お庭番の報告は、たとえば次のようなものだった。
 「町奉行二人のうち曲淵甲斐守(まがりふち・かいのかみ)の風聞が悪い。江戸の町方の鎮圧に町奉行の手に余る(取締りが不十分)ことは不味いとのうわさが流れている。

 打ち壊しのため町奉行、与力、同心が出動したが、騒ぎの中に飛び込んで召し捕るなどということはなかった。まぎれて行う小窃盗や怪しいものを召し捕るだけだった。現行犯で取り締まらないから、召し捕ったものの中に破壊に参加したものもいただろうに、それがはっきりせず、町方の評判は極めて悪い。そのうえ、打ち壊しがあった後へ後へと回っているので、鎮圧になっていない。

 

 町方では、町奉行の弱腰を、口を極めて非難していた。それが、すべてお庭番を通じて将軍の耳に入っていた。
 また、打ち壊しが起こった後、町奉行は御救い金や、お救い米を町々に下賜することを決めたが、それ自体は感謝されたが、騒ぎの前に下賜していたら、将軍のお慈悲として感謝されただろうが、騒ぎを起こす前は一向に取り合わず、騒動に及んでから下賜したのでは、騒ぎを起こしたものを懐柔するためのように受け取られる、などの報告があった。


将軍の政治に欠かせなかった情報網
 将軍のお膝元である江戸での打ちこわしなど、まさに前代未聞の大事件は、町奉行所の譲歩を引き出す江戸の下層民の勝利に終わったといえる。幕府の権威をまもるためにも、町奉行はよく情勢を把握し、速めに手を打つ必要があった。
 曲淵は、下賜の願いがあったとき、むかし飢饉のときは犬を食べたことがある。このたびも犬を食ったらいい、との暴言を吐き、これが大騒ぎの元になっていた。状況判断ができない傲慢な町奉行だったため、最悪の事態となった。
 

 翌六月には曲淵が町奉行を更迭された。罷免ではなく、閑職の西の丸留守居への移動だった。もう一人の町奉行は、非番だったため留任した。幕府は曲淵を罷免にすると、打ちこわしに負けたようになるため、左遷にとどめ、お茶を濁したのだろう。
 以上のように、御庭番の情報により、町方の動き、町奉行の評判など、想像以上の情報が将軍に上がっていた。


お庭番の出張
 御庭番の「第一の御用」は、「遠国(おんごく)出張」だった。遠国御用とは、江戸から遠く離れた地域の正常を探索することで、通常、二名のお庭番が出張する。ここでは、遠国御用がどのようにおこなわれたか?を史料(「川村清兵衛手留」)の記述をもとに復元してみる。

 安政七年(1860)三月三日、江戸桜田門外で、登城中の大老・井伊直弼が首を打たれた。井伊の反対派を弾圧したことによる報復だった。
 

 ちょうど参勤途中にあった薩摩藩主島津忠義は、この事件を知って、国元に引き返し、その後は病気と称して参勤しようとしない。幕府は、井伊直弼殺害に元薩摩藩士が加わっていたことから、井伊大老が藩主だった彦根藩家臣たちの復讐を気遣っているのか、何か外に意図があるのか、本当のところを知りたかった。ために西国に御庭番を派遣して、薩摩藩の動きを探索しようとした。


商人に姿を変え遠国での情報を収集
 このときの御用は、清兵衛と明楽鋭三郎の二人だった。ただ二人だけと言うわけではなく、飛脚屋から荷物の運搬役を一人雇った。飛脚屋は、こうした御用を承る店で、上方にも支店があった。飛脚屋は、日常的に手紙や荷物を送るほか、様々な除法を収集して書き送っており、現在で言うと通信社のような役割も果たしていた。御庭番からみると、上方の飛脚屋へ行けば、西国筋の情報も得ることができた。

 

 清兵衛らは、京都、大阪の協力者へ手紙を送り、今回の任務を伝え、七月十八日、江戸を発った。御庭番と知られては探索などできないので、商人に姿を変えてゆく。ただし、あまり変わったものに扮すると、逆に怪しまれて失敗するから、ごく普通に行動する。
 清兵衛らは、中山道を使い八月四日に大阪へ到着、そこで八日まで逗留した。この期間に手先などの協力者から情報を入手する。

 

 その後山陽道を下り、熊本まで行くが、薩摩藩領に入ることはできなかった。「薩摩飛脚は冥土の飛脚」という言葉は有名で、薩摩藩はよそ者の入国に厳しく、招待がバレたら命も危ないから、自重したのだろう。そこで清兵衛らは長崎に向かい、そこで逗留して情報収集に当たった。
 長崎には、幕府の出先機関である長崎奉行所があり、西国諸藩が長崎に置いた蔵屋敷には、「聞役(ききやく)」という諸藩の家臣も常駐していたから、情報収集には好都合だった。
 

 清兵衛らの行動を見ると、遠国御用は、確かに姿を変えて目的地に向かうが、基本は地域の協力者からの情報を収集分析することだったようだ。当時、噂された植木屋や経師屋などを手先に使い潜入させる、などといったことはなかったらしい。


重宝された情報
 その後、清兵衛らは引き返し、十月十六日には江戸に戻った。使った金銭は合計八十八両で、会計報告をしている。この頃遠国出張の予算は、二人で一日に一両が普通だった。残金の十二両は返却に及ばずとされ、二人に与えられた。
 その後、探索書を記して提出、それぞれ十三両ずつの褒美が与えられた。
 

 御庭番は、遠国奉行にまで昇進することがあるれっきとした旗本であり、時代劇に描かれるような[幕府隠密]とは全く違っている。全国的な新聞などが存在しない時代だから、こうした情報収集は、小さな情報を照らし合わせてある程度の期間、検証を続けると、相当なことまでが判明し、幕府にとっては、貴重なものだった。


参考本:『江戸の組織人』 山本博文 新潮文庫 平成20年刊