(315)四国遍路 | 江戸老人のブログ

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(315)四国遍路

 

 聖者を慕って、ゆかりの土地などを参拝することは世界の何処でも行われていました。たとえば仏教にしても、色々な形で行われています。インドでは釈迦の①生誕、 ②成道(じょうどう)③初転法輪(しょてんほうりん)④入滅 という四つの跡を巡る巡礼が行われてきました。
 日本では、南都七大寺順拝、京都清水寺、六角堂など観音を本尊とする寺院を巡る七観音順拝に始まり、中世から近世までで、最もよく知られるようになったのが、四国遍路と四国巡礼です。

 

 四国遍路は、四国にある弘法大師空海ゆかりの八十八か寺を巡って参拝するもので、「四国八十八ヶ所札所巡り」ともいいます。一方、西国巡礼は、近畿地方を中心に、現在の二府五県にまたがって散在する観音寺院三十三ヶ所を順拝するものです。
 厳密に言いますと、「順礼」と「巡礼」との二つがあります。順礼は順番に従って参拝するもので、四国遍路の場合は、一番から八十八番までを順番に参詣するため「順礼」といい、西国順礼の場合などでは、伊勢参りや高野詣でと重なったりするため、順番に関係なく寺を巡る「巡礼」になります。


弘法大師の足跡
 四国での弘法大師空海ゆかりの順拝がいつから始まったかは、不明です。弘法大師は讃岐の屏風ヶ浦で生まれ、十九歳のとき阿波の大滝山や土佐の室戸岬で修行したことが、自筆の著書『三教指帰(さんごうしいき)』に書かれています。空海は各地の岩屋にこもって修行したり、数々の奇跡を起こして人々を救ったりしながら、諸国を巡る旅を続けたといわれます。そうする間にお弟子さんたちが、空海の足跡を訪ねて四国の山野を巡って歩いたのが、いつの間にか定着して、これが起源ではないかと考えられています。


 ところで、中世までは僧侶の修行の場としてのみすぼらしい草庵が各所に点在するだけだったのですが、それが八十八ヶ所の寺院となり、庶民も巡礼するようになったのは、近世中期以降の話と伝わります。真念と言う旅の僧が『四国巡礼指南』を記し、同じような書物が多く出現し、このころから四国霊場として定着して、順拝の風習が広まったと考えられるのです。人々は有難い弘法大師の足跡をたどることによって、その徳を偲び、ご利益を得たいと望み、現在でも、大師とともに修行することを示す「同行二人(どうぎょう・ににん)」と書かれた帷子(かたびら)を来た参拝者が、後を絶ちません。


二つの順路
 順拝の順路は、阿波の第一番札所・霊山寺(りょうぜんじ)から讃岐の大八十八番札所大窪寺(おおくぼじ)までの礼所を巡る二百四十里であります。四国を四つに分けて、①阿波が最初に仏の道を志した発心(ほっしん)の道場、②土佐が修業の道場、③伊予が悟りを得る菩提の道場、④讃岐が仏教理想の境地を得る涅槃の道場、とされています。一から八十八番までを順番に参るため、これはまさに順礼です。
 

 このコースを「正打ち」といいます。昔は今のように納経帳に印を押して貰うだけでなく、参ったしるしに自分の名前を書いた木札を堂に打ちつけながら巡拝したので、順拝のことを「打つ」といい、順拝する寺を「礼所」と呼びます。
 

 その一方で、讃岐の丸亀や、伊予の今治に上陸して、大窪寺から逆廻りに霊山寺へと順拝することを「逆打ち」といいます。


接待の功徳
 昔の村人はお遍路さんを接待することによって、時分も遍路と同じ功徳が得られると考えました。今でもそうですが、ご接待の背景にはそういった考えがあります。
 礼所の各寺院は、遍路宿とよばれる宿坊を備えておりました。ここでは旅行費用がなくなった人も泊めてくれましたし、病気の人が泊まって回復するまで養生することもできました。そのうち寺院の門前にも、遍路宿がたくさんでき、遍路用具を売る店や飲食店が建ち並び、門前町ができてきます。
 

 そうではあっても、上に書いた考え方から、霊場に向かう道筋には、村の人々の寄進によって茶屋が建てられ、村人たちはお茶や、飯、餅、手拭、草履などを振舞って、お遍路さんたちを接待しました。また、善根宿(ぜんこんやど)といって、村人がお遍路さんを自分の家に連れ帰り、泊めることもあったのです。

 

 茶屋や、善根宿となった家ではお遍路さんと世間話やよもやま話に花を咲かせ、諸国からの人々と触れ合うことにより、いながらにして各地の生活の様子や、全国の情報を得ることができ、情報交換、情報収集の場でもありました。こうした場では、農業や工業の技術を学び取ることもできたといいます。


参考図書:『旅の民俗誌』 岩井宏實著 河出書房新社