東海道中いろいろNo.1  | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。



(313) 東海道中いろいろNo.1 


 

 大東亜戦争後にアメリカ軍が日本の道路事情を調査した所、あまりの悪路に驚いたとの記録がある。これは事実で、東海道五十三次のうち、舗装されていなかったのが60%を超えていた。
 しかし、江戸時代に日本に滞在したケンペルやシーボルトは「大変よい状態が保たれ、ヨーロッパの石畳道路より優れている」と書いている。
 

 安永五年(1776)に長崎から江戸への旅に随行したツュンペリーというスウェーデン人医師が次のように記している。

 「道路は広く、かつきわめて保存状態がよい。そしてこの国では、旅人は車が禁止され、駕籠(かご)に乗るか徒歩なので、道路が車輪で傷つくことはない。また旅人や通行人は道の左側を歩くという良くできた規則がある。結果として、大小の人々の集団が出会っても、一方が一方を邪魔することなく、互いにうまく通り過ぎるのだ。


 ヨーロッパ諸国にとって大いに注目に値する。なぜならヨーロッパ諸国では、地方だけでなく、都市の公道においても毎年、子供や年寄りが車などにぶつけられ、怪我をしている。嘆かわしい話だ。(『江戸参府随行記』)」

 これを読むと、ツェンペリーの見た東海道は、とてもよい状態だったらしい。また日本人にとっては当たり前だった左側通行が、ヨーロッパ諸国では行われていなかったことがわかる。人も馬車も、好きな側を通行したのだろうが、ひどく危険である。
 
 つづけて「この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排残されている絵図をみてもちゃんと左側通行になっている。水用の溝を備えている。(中略)そして埃(ほこり)に悩まされる暑い時期には、道路に水を撒き散らす」などと書いている。

 また日本を旅した全般的な印象として「綺麗さと快適さにおいて、こんなに気持ちよいたびができたのは、オランダ以外なかった」「最小の村にも、複数の小さな宿屋があり、旅人のためいつでもお茶が沸かされ、かつ食物が添えられている」とほめる一方で「開化されているヨーロッパでは、旅人の移動や便宜をはかる設備が、多くの場所において不十分である」とヨーロッパを批判している。

 

 この人は優秀な植物学者でもあり、いわばヨーロッパの知性、あらゆる面でヨーロッパが一番だと信じたい方々はご不満かもしれないが、この人がこんな風に感じたのも事実なのだ。車を使わなかった東海道では舗装の必要がなく、また夏の道路表面温度の関係から舗装を避けている。また日陰を用意すべく、並木を街道の両側に設けたりしている。草鞋という、ほとんど裸足に近い足ごしらえだから、舗装などしてあれば真夏の昼間は灼熱地獄となる。このほうがご先祖たちには有難かったはずだ。

 

 旅には荷物がつき物で今も昔も変わらない。たくさんの荷物を運ぶのであれば、今は自動車などがあるが、江戸時代は道路の表面を傷めるから、車は使わない。重いものでも自分や他の人間が運ぶか、馬などを利用した。当時の馬は調教をしていなかったから、手綱(たずな)がつかえない。人が歩く後ろについて歩くだけだった。

 また、蹄鉄がなかったから専用の草鞋を履かせ、時々交換した。明治11年に日本を北海道まで旅して、『日本奥地紀行』を記した、英国の旅行家イザベラ・バード女史は「・・・・・・馬子たちは馬を恐る恐る取り扱う。馬は打たれることも、蹴られることもない。なだめすかしながら、馬に話しかける。概して日本では、馬のほうがその主人より良い生活をしている」と記述している。

 

 民間の馬はまったく調教されていなかったから、仮に旅人が馬に乗るとしても、ただ飼い主の馬子についてあるくだけ、旅人がひたすら歩いたように、馬も馬子と同じ速度で、ひたすら歩いた。馬で旅行するといっても、手綱がないから西部劇のようにはいかず、旅人もそんなものと思って不満にも思っていなかった。
 

 細かいことは省略するが、①馬に乗せるのが旅人だけ、②旅人と荷物、③荷物だけなどと料金が決まっていた。駕籠に乗るという手もあった。もっとも現在のタクシーのように気楽に乗れるものではなかったらしい。必要に応じて色々な種類の駕籠があった。江戸用語の「乗物」とは、「乗り物駕籠」つまり高級な駕籠のことで、身分の高い武士、幕府高官、偉い医者など、特別な身分の人しか乗れなかった。

 

 駕籠の料金はかなりになるのだが、話し合いで決めていたらしい。タクシーに相当するのが「辻駕籠」で、ハイヤーに相当するのが「宿駕籠」の二種類があった。箱根越えのような場合はおよそ八百五十メートルを昇るのだから、よほどの力持ちでないと勤まらない。いわゆる雲助という、特別に力が強い者がかついだが、乗るのは裕福な町人だけだったという。雲助は犯罪者のように伝わるが事実とは全く違う。小田原から三島まで、いわゆるぶっ通しで、明治初年の記録だとおよそ一両とある。


旅籠に泊まる
 一泊二食つきの宿屋は、旅籠屋(はたごや)、略して旅籠といったが、昔の宿屋としては最も普通であった。今の旅館と同じような料金体系だったが、この形式は江戸時代に完成していた。もっと安い木賃宿というのもあったらしい。旅人が宿屋に米を渡して木賃、つまり薪代だけ払って泊まる。渡した米の分だけ安くなったという。
 江戸日本橋と京都三条大橋の間には、五十三ヶ所の宿場があったが、起点の日本橋と三条大橋は数に入れない。宿場とは旅人のための馬や駕籠が待機している場所のことだったが、もちろん旅籠屋の密集地であり、今でいうホテル街でもあった。
 


 宿泊料は一泊で一〇〇文から三〇〇文だった。江戸と京都間はおよそ一四泊ほどだったから、雑費も入れて、およそ一両ほどと見積もればかなり余裕が在る旅ができた。もちろん時代によっても違うが概算である。
 旅籠の質が悪く、苦労した旅人らが旅籠の経営者らとともに設置した「浪速講」があり、現在の「JTB指定旅館」だとか、「国際観光旅館」のようなもので安心して泊まれた。
 

 現在ではホテルや旅館を予約して出かけるが、電話も電報もなかった江戸時代は、行き当たりばったりだった。宿場の収容人数には余裕があり、旅籠側が客の取り合いをしていたから、普通は困ることはなかった。川止めなど、宿泊者が多すぎて困る場合は「相部屋(あいべや)」といって、同じ部屋に他人も宿泊する。


旅籠の泊まりかた
 宿に入ると、まず盥(たらい)に入れたぬるま湯で客の足を洗ってくれる。これを「濯ぎ(すすぎ)といった。草鞋は履いていたが、道中は埃だらけ、まあ裸足で歩いているようなものだったから、晴れた日は埃、雨の日は泥で足が汚れ、濯ぎなしではあがることができなかった。
 

 宿には日の高いうちに入れるようにしていた。そのかわり出発は早朝というより、夜中といった方がぴったり来る時間だ。暗いうちに出立し、明るい昼間に到着する。目的地に早く到着するのは、その必要があった。理由は照明である。当時の行灯はおそろしく暗い。何をするにも不便だから万事をさっさと済ませ早めに眠った。
 残された絵を見ても、旅人たちが日の高いうちに宿に着き、入浴したり部屋で休息したりの場面が多い。暗い行灯しかなかった江戸の人々は、なるべく早い方へずらし、太陽の光を有効に活用した。


大名が泊まる本陣
 江戸時代の宿場には、「本陣」という高級な宿泊設備があった。幕末でも270ほどいた大名が参勤交代での旅で宿泊する場所で、殿様のほかに、公家、公用での幕府役人、江戸に参府する外国人なども宿泊した。空いているときは、それなりの料金を払い、一般客も泊まれたという。


一文銭と四文銭
 室町時代までは、大陸から輸入した「海外渡来銭」が大量に流通して、独立国として正常な状態ではなかった。徳川幕府は、国内産の銭を流通させようと努力した。寛永十三年(1636)になってようやく「寛永通宝」一文銭を発行した。だが、渡来銭の流通があまりに多く、寛永通宝以外の銭の使用を禁止できたのは、寛文十年(1670)になってからである。

 その後、貨幣経済が成長し、一文銭だけでは銭貨の流通量をまかなえなくなり、100年ほど後、明和五年(1768)にはやや大型の四文銭を発行した。この四文銭には、裏面に青海波(せいかいは)の模様があるため、「波銭」とも呼ばれた。また、江戸末期の天保六年(1835)には3×5センチ近い長円形の天保通宝を発行した。一枚で100文とした。

 金貨と銀貨の問題はあったが、一般人の旅行では、支払いはほとんど銅貨でおこなわれた。たとえば、旅籠料一泊二食つき二百文というように、料金が銭立てになっていたからだ。関西では宿泊料を、銀何匁というばあいもあったが、実際はそのときの相場で換算し、銅貨で支払うのが普通だった。
 

 一文銭の重さは一匁(3.75グラム)だから、100文だと375グラム、500文だと1875グラムとなって2キログラムに近くなる。荷物のほかに重い銭を持つのは大変だから、当座必要な金額だけを持ち歩き、銅貨が足りなくなると財布から一分、あるいは一朱ぐらいの小さな金銀貨をだして、両替をしながら旅を続けるのが普通だった。(続く)


★ 2,3日旅行にでます。申し訳ありません。


参考図書:ニッポンの旅 石川英輔著 淡交社 平成19年