(307)富山の薬売り | 江戸老人のブログ

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(307)富山の薬売り


富山売薬
 山を越え、里を越えて、町や村の人々に生活必需品を売り歩く行商人のなかに、薬売りがいる。天然の植物や動物、鉱物を薬に用いることは、原始時代でもあったと思えるが、日本では大陸から薬剤技術が伝えられ、その薬の一部は正倉院にも残されている。
 

 その後もいろいろな薬を作る技術が進み、中世には荘園領主に保護された「薬座」や「地黄煎(じおうせん)座」といった薬の製造販売をおこなう同業組合もできた。
 

 都市部では薬を扱う商工業者が独立して行くが、薬草などを採取しやすい山村では、薬を個人でつくり、それを携行して全国を行商して歩くものも現れた。

 このころの薬には、丸薬、散薬(粉薬)練薬、煎薬などがあるが、特に丸薬は呑み易く、変質しにくいので、行商の薬のとして適していた。売薬行商の根拠地として代表的なところが越中や大和で、富山売薬、大和売薬の名で全国に知られた。木地屋や山伏などが活躍する奥山の山麓に起こった。なかでも有名なのが富山の薬売りで、

 

  越中富山の反魂丹(はんこんたん)
  鼻くそ丸めて万金丹(まんきんたん)
  それをのむ奴ァあんぽんたん
 

 と歌われるほど、全国に名前が知られていた。反魂丹、万金丹は富山売薬の代表的な丸薬で、最盛期には百二十種あまりの薬を売り歩き、中部、関東を中心に、大和売薬の商圏を除き、全国に販売網を持っていた。

 

 販売方法には配置売薬といわれる「置き薬」に特色がある。年に一回か二回、田植えや稲刈りの終わったころに、各種の薬を用意して得意先に置きに行き、それを一年間自由に使ってもらう。次に行った時、使用済みの薬代を徴収して使った薬を補充する。薬屋の少なかった時代には、置き薬は非常に便利なものであった。筆者が高校生のころまで、そう、昭和35年くらいまでは、筆者の家にも着ていてた。医師に掛かるほどではなさそうな場合は、富山の置き薬を飲み、それで結構治っていた。子供がいると紙風船を膨らませてくれた。


 そのころの行商人では[千葉のおばさん]という老年に近い女性が、山のような荷物を背負って、新鮮な野菜や干物類を行商に来ていた。安く質がいいので亡き母はよく利用していた。いつも長時間、世間話がつづいた。

 富山売薬がいつから始まったかははっきりしないが、胃腸病に良く効く有名な反魂丹は古くからあったという。縁日などで、曲芸をしたり物を売ったりする香具師の家筋のものが始め、江戸へ出て、宣伝と人寄せのためにさまざまな芸をしながら売り広めたという。

 

 富山製の薬が行商されたのは、元禄年間(1688~1702)のことだと記録にある。香具師による反魂丹売りは、宝暦・明和年間(1751~72)に衰微してゆき、この時期に全国販売網を持った、越中売薬人が香具師に取って代わった。そのころまでには、諸国の人は富山の薬をみやげ物として持ち帰り、全国の人に知られていた。


富山の売薬人
 明治時代の富山の売薬人のいでたちは、長着物を着て、足さばきのよいように着物を腰のあたりで内側に半分に折って、博多帯を締める。この着物のうえから前垂れ(前掛け)をかけ、そのうえから羽織代わりに厚司(あつし:厚い木綿織りの半纏(はんてん)を着たが、明治も終わりころになると羽織を着るようになった。手足には手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)甲掛(こうがけ)などをつけ、足元は、初め草鞋や草履だったが、後には地下足袋になる。このような身なりで腰に筆記用具の矢立を差し、紺色の大風呂敷で柳行李を包んで背負う。

 


 柳行李(やなぎこおり)は、いちばん上のもっとも小さいところには帳面、矢立、算盤、弁当などを入れ、時には小さな燭台、厨子もいれる。二段目の行李には得意先に持ってゆく土産物、三段目には回収した残りの古薬、四段目、五段目に新配置の薬を入れるが、ここは客に覗かれることもあるので、十服ぐらいずつまとめて整然と入れ、特に五段目は桐の間仕切りをいれ、薬の種類を明瞭にしておいた。

 行李の二段目に入る土産物は、売薬行商の特徴となる商法のひとつで、薬の値引き以外に得意先を広め、また、得意先とコミュニケーションをとるために重要なものであった。富山売薬の土産物は、紙風船(後にゴム風船となる)、針、塗箸、九谷焼の徳利、杯、急須などであった。
 このほかに、「紙絵」というものもあった。紙絵は錦絵のことで、特別の得意先には、これを土産物とした。こうして配られた錦絵が、江戸や大阪で人気のある役者や、各地の名所についての情報を地方に伝えるという大きな役割を果たしたのである。



懸場帳(かけばちょう)
 こうした売薬商人の命ともいうべきものが「懸場帳」である。得意先売掛帳であるが、行商人の営業範囲とそこでの営業権を意味し、売買や借金の担保の対象ともなる。阿多rしく売薬を始める場合は、少なくとも三年以上は必死で努力しなければならないが、最も手っ取り早い方法は、売薬行商をやめる人の懸場帳を買い取ることだった。これは、売掛総額のおよそ倍くらいの金額で買い取ることもあった。

 

 ところで、売薬の利益は、俗に「薬九層倍」といわれるように大きなもので、元値の九倍とは行かないまでも、少なくとも七倍ぐらいはあったといわれる。

 売薬商人は、得意先でよもやま話をしながら、その地域のあらゆる情報に通じ、自分の見聞したよその土地の生活ぶりや、新しい生活技術などを教えたりして、情報交換をした。人々は売薬商人の話から、居ながらにして行ったこともない地方の状況や世間の動きを知ることができた。ときには、売薬商人が縁談の橋渡しをすることもあった。

 

 売薬商人は、商売が繁盛することを願って、病を治療する方法を人々に教え、医薬を始めたと伝わる少彦名命(すくなひこなのみこと)や神農、薬師如来を信仰し、特に神農に対する信仰は深いものだった。神農は中国の伝説上の帝王で、三皇の一人とされ、牛首人身(文字の通り首から上が牛、下半身は人?)の姿で医薬道を開いたとされる。この神農は香具師にも深く信仰されたが、それは香具師がもともと薬を売っていたことによるものと考えられている。



『旅の民俗誌』 岩井宏實 著 河出書房新社 2002年