(294)消えたキー77
大東亜戦争時、日本とドイツ、イタリア間との連絡は潜水艦によっておこなわれたが、空の連絡路を開くとこも計画された。
日本の長距離飛行は、世界的な水準に達していた。昭和12年には、陸軍の司令部偵察機キー15の試作第二号機が「神風」と命名され、朝日新聞社航空部員によって東京・ロンドン間15,357キロを、各地で離着陸をしながら飛行した。その折の94時間余の所要時間は、国際都市間連絡飛行の世界新記録で、ついで東京日日新聞社も、海軍から借りた九六式陸上攻撃機を「ニッポン号」と命名、世界一周飛行を試みた。
それらは、途中で離着陸を繰り返した飛行であったが、昭和十三年五月には航研機が、1万1,651.011キロの無着陸飛行に成功、世界記録を樹立した。それは東京帝国大学航空研究所の総力をあげて設計された研究機で、東京瓦斯(ガス)電気興業会社が製作にあたった。航研機は五月十三日、千葉県木更津、群馬県太田、神奈川県平塚の三点を結ぶ周回コースを三日間にわたって二十九周し、六十二時間二十二分四十九秒飛び続けたのである。
しかし、その記録も翌十四年七月三十日に、イタリアのサボイエ・マルケッチィM-82によって破られた。飛翔距離は、航研機より千三百キロ上回る12、935キロであった。イタリアも世界屈指の長距離飛行に堪える機種の保有国であった。
そうした背景のもとに、日本と独伊間の空の連絡は、まずイタリア機により実行に移された。
イタリアは、日本、ドイツと軍事同盟を結んでいたが戦力が乏しく、常にドイツの指導下にあった。そうした汚名を返上する目的で、日本に長距離機を飛ばす計画を立てた。ドイツには、イタリア機に勝る長距離機はなかったのである。
イタリア軍首脳部は、長距離機をドイツの占領下にあるクリミヤ半島から離陸させ、直線コースをたどって日本軍占領下の中国北部に着陸させる計画を立てた。機種はさらにすぐれたサボイア・マルケッティSM75型機の改造型に決定した。
それは日本側にも伝えられ、参謀本部は、空の連絡路が開かれることを喜んだが、難点は飛行コースであった。イタリアが主張するコースをたどれば、当然ソ連領南部を通過することになる。
日本は、ソ連と不可侵条約を結んでいて、対中国、対米英戦に総力を挙げていることからも、来日を目的としたイタリア機の領空侵犯によりソ連を刺激することは絶対に避けねばならなかった。東条英機大将も、イタリア案に激しく反対した。
参謀本部はコースの変更を強く求めたが。しかしそうなると五千キロを余計に飛行しなければならず、イタリア側は難色を示した。しかし、日本とイタリア側で飛行コースについての応酬が繰り返された結果、イタリア側はやっと日本案を諒承した。
昭和17年7月1日午前6時50分(日本時間)新鋭イタリア機は燃料を満載してクリミヤ半島飛行場を離陸した。
しかし、機は、日本側の要請にもかかわらずインド洋コースをたどらず、ソ連領南部上空に向かった。同期の離陸後、イタリア側は日本大使館に対して着陸予定地を中国北部の包頭(パオトウ)飛行場と伝えてきた。独断的なイタリア側の措置に参謀本部は狼狽したが、すでに機が出発した後であったので、とりあえず西原一束中将を包頭に急行させた。
イタリア機は、翌7月2日午前4時過ぎ無事に包頭飛行場に着陸した。乗員は機長以下5名であった。同機は整備を受けた後、燃料補給を終えて翌二日朝離陸、朝鮮半島上空を経て、夕刻、東京郊外の福生飛行場に着陸した。
参謀本部は、ソ連にイタリア機が上空侵犯したことを悟られまいとして報道禁止をし、部内でも口外することをかたく禁じた。また、イタリア機を飛行場の隅にかくし、イタリアの乗員たちを宿舎にとじこめた。
参謀本部は、この機会にドイツ、イタリアへ軍事使節を送ることを考え、それに対して第二課(作戦課)の辻政信中佐がその任を買って出た。そしてイタリア機の機長に辻の同乗を依頼したが、機長は即座に拒否した。辻をのせることは、それだけ重量が増し、飛行に自信が持てないという理由からだった。が、拒絶した真意は、貴重以下全員を軟禁状態においた日本側への反感からともされている。
イタリア機は7月16日、福生飛行場を飛び立ち、包頭をへてクリミヤ半島に向かった。コースは往路と同じで、クリミヤ半島に着陸し、6時間後にローマのギドニア飛行場にたどり着いた。飛行場には、ムッソリーニ首相をはじめ軍首脳者、日本大使らが出迎え、その偉業をたたえた。
その後、イタリア側は再び日本への飛行を計画したが、飛行コースの点で日本側との折り合いがつかず、計画は立ち消えとなった。
日本側では、それに刺激されて、約八千キロの航続力を持つ二式大型飛行艇の使用も考えたが、インド洋コースをたどるには航続力が不足であることから実行に移されなかった。
そうした中で、A-26長距離機がにわかに注目を集めるようになった。同機は、朝日新聞社が紀元六百年の記念行事として、昭和14年秋、東京・ニューヨーク間の無着陸飛行という破天荒な計画のもとに立案された飛行機であった。
その計画は、陸軍の協力も得て、航研機を産みだした東京帝国大学航空研究所に設計が依頼された。研究所内には長距離機技術諮問委員会が設立され、研究所員と陸軍航空技術研究所の航空技術将校たちが会合を繰り返して活発な意見を交換した。
やがて設計が進み、制作は立川飛行機株式会社が、発動機は中島飛行機株式会社がそれぞれ担当することになった。
しかし、昭和16年12月8日、大東亜戦争の勃発によって、朝日新聞社の企てた東京・ニューヨーク無着陸飛行の計画はついえ、立川飛行機、中島飛行機の両社も軍用機受注の急増によって作業を中止した。
陸軍では、A-26の処置を検討し、長距離爆撃機として開発することを決定し、陸軍機キー77第一号機が完成し、11月18日に立川飛行場で試験飛行が行われた。結果は満足すべきもので、初実験が繰り返され改修すべき諸点が第二号機の制作に加えられた。
昭和18年1月、航空本部総務部総務課長は、突然、東条首相兼陸相に呼ばれた。東条は、
「キー77で、ドイツに無着陸飛行をすることはできぬか」
と川島総務課長に質問した。
川島は十分可能であると答え、キー77のドイツ派遣が決定した。条件としてソ連上空を避けること、万が一不時着などした場合、国際問題となるから、民間機によるものと決定した。亜成層圏を飛行することからア号と呼ばれた。
昭和18年6月30日午後3時17分、キー77二号機は福生飛行場を離陸、一気にシンガポールのテンガ飛行場まで飛び、着陸した。8トンの燃料を搭載すれば1万5千キロの飛行は確実で、ドイツまでの無着陸飛行は問題なしと判定されていた。
飛行中は飛行をさとられることを恐れ、無線発信を一切やめ、緊急事態が発生したときのみ発信することにしていた。そんな訳で機の出発と同時にシンガポールの陸軍通信隊では、機から無電が打電されるか否かを探るため、万全の態勢をとっていた。
幸い、緊急発信はなく、機が無事に飛行中と推定された。しかし、到着予定時刻を越えても、何の音沙汰もない。やがて不測の事故で墜落したことが明らかになり、飛行コースに沿った中立国にひそかに調査の手が入ったが、機がそれらの国の領内に墜落した情報はなかった。
飛行計画推進の担当者であった川島寅之輔大佐は、敵戦闘機により撃墜された公算大として、報告書を航空本部長に提出した。
西大佐以下戦死認定理由書
一、 不明となりたる前後の状況
1. 日時 昭和18年7月7日
2. 場所 インド洋上
二、 生死不明となりたる前後の状況
其の重大任務を帯び当部所属特殊飛行機(キー77)に搭乗、昭和18年7月7日 8時10分昭南飛行場を離陸し印度南側を経て印度西側洋上に向かへり
当日天候良好にして気象上何等の不安なく機関及通信機快調にして任務達成を期待ありしも 最大航続時間を経過するも消息不明となれり 即ち敵情等より判断し途中敵機の攻撃を受け壮烈なる戦死を遂げ樽ものと判定す(以下略)
しかし、戦後、連合国側の記録にキー77と思われる双発機を撃墜したという記載はなく、消息を断った理由は、今もって不明である。
『歴史の影絵』 吉村昭著 文春文庫 2004年