(269)天璋院篤姫の食事
テレビドラマ『天璋院篤姫(てんしょういん・あつひめ)』は、宮尾登美子原作だがヒロインが愛らしく、それだけでいい。もっとも映画『三丁目の夕日』で「ロクちゃん」だったかを演じた女優が登場とかで楽しみにしていたのに、和宮(かずのみや)の役で登場したのだけど、今ひとつ魅力がない。ま、そんなことはどうでもよく、話は別で時代考証ということであります。江戸時代のことだから実際に目で見た人がいない。時々写真などが残されて役に立ちますが、すべてがわかるわけでもない。
映画やテレビの娯楽時代劇を見ると、相当におかしい。そうはいっても「しょうがないな・・・」 とか「まあねえ・・・」と黙っていることが多いのですが、横綱審議委員とかになっていた老女が描くシナリオはチョット酷い。この間は主人公が長屋を借りにいく設定で、所有権者が大家として裏長屋を案内したりする。
「大家といえば親も同じ」今の区役所みたいな行政職員でもあった訳でして、大家株というのがあり、持ち主とは関係がない。ここまで違うとまずい。事実が見えなくなります。
「武士と職人」が同じ居酒屋の「テーブル」で飲んでいたりすることには、文句をいえば野暮だから黙っていますが、当時はすべてタタミの上だけで飲食しておりました。お盆くらいしか使わない。浪人であっても武士が職人と同じ場所で飲むことはありません。職人だって迷惑です。醤油樽を椅子代わりにしたのはホントですけど。
さて、『天璋院篤姫』の話に戻ると、チョット困ったな、という所があった。なんでも島津家縁戚の今和泉(いまいずみ)家から、君主・島津斉彬(しまず・なりあきら)の養女となり、たしか京都の近衛家の養女になり、長い時間がかかって将軍徳川家定の正室(正妻)になったという設定で、じゃぁなぜ正室になったかというと、日本の将来を案じた島津斉彬と老中・安倍正弘(あべ・まさひろ)などが画策し、十四代将軍を一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ:15代最後の将軍になった)にしちまおうと、正室に島津家養女を嫁がせれば、将軍・家定を説得できるのではないか? との思惑だったというのでありますが、これはチョットおかしいのであります。無理があります。最近の研究でといっておきますが、事実は徳川家定のほうから、島津家へ「いい娘さんがいたらよろしく?」と頼んだのであります。
島津家というのは関が原の戦いで徳川の敵方だったわけで、ホントは家康も島津家を消してしまいたかった。でもひどく強いし、琉球を通じ中国との密貿易で財力もある。敵にまわしたくない。もちろん島津家のほうも逆らわぬよう上手くふるまったんですが、両方で仲良くしたほうがいいと考え、婚姻関係を強めた。お互いに相手を十分に味方につけておかないとヤバイと思ったのでしょう。
その第一歩として実現したのが、五代将軍・徳川綱吉の養女「竹姫」と、島津家22代の当主、島津継豊(つぐとよ)との結婚でありました。
この「竹姫」という方は、最初、会津藩主の嫡子、松平久千代と結婚したんですが、結婚式もまだのうちに相手が亡くなり、しょうがないので、2年後に有栖川宮正仁(ありすがわのみや・まさひと)親王と婚約、結納を済ませたところで、相手が亡くなります。この頃はとにかく人が良く死ぬんですね。たいてい脚気(かっけ:ビタミンB1欠乏症候群)でした。竹姫は二度まで不縁となった、誠に気の毒な人でした。
で、その後、八代将軍・吉宗が自分の養女にしていたのですが、同じく配偶者を亡くし、まだ次の正室を迎えていなかった島津継豊に「竹姫はどうだろうか?」と薦めますが、イロイロあって「竹姫さまご器量は優れかね候(容貌に難があるから)」との記録が残りますが、天下の将軍が無理矢理押しつけたわけで、しょうがなくて、享保14年に継豊と竹姫の結婚式が行われます。なにせ将軍養女の嫁入りということで、大がかりで、荷物の運搬だけで三日かかったというほど。竹姫に付き従ってきた女中たちが204人、芝の薩摩藩邸の隣地に屋敷を与えています。もっとも島津家のほうの出費は凄かったといいます。
その次が篤姫となるんですが、昭和15年文部省の『維新史』に、結婚の目的を「慶喜の問題を篤姫より将軍に説かしめる・・・」と書いてある。また大久保利通の孫、大久保利義(としあきら)も同じようなことを、作家・綱淵謙錠(つなぶち・けんじょう)が『島津斉彬』(PHP研究所1990)にも、で、決定的なのが司馬遼太郎氏の『最後の将軍』に「もっと巨大な工作者がいる。薩摩の島津斉彬である。・・・この工作も凄みがあった云々」と書いてありますから、事実と思い込んじゃう。しかしそうなると島津斉彬が残した書簡などと辻褄(つじつま)が合わなくなってくる。
答えは簡単で、薩摩の島津家からは、15名の若い男女(ま、歳月とともに歳はとりましたが・・・)が日本国中の大名家に嫁いだり婿養子とかに入っていました。当時とすれば大変な数です。で、みな元気でピンピンしておりました。徳川家定のブレーンが魅力を感じたのも自然であります。なにせ二人の正室(公家出身)を失った不幸続きの将軍・家定でありました。繰り返しになりますが、この頃は簡単に人が死にます。たいていが脚気(かっけ)か肺結核などの感染症でした。竹姫の周囲も徳川家定も、その次の皇女和宮を妻にした徳川家茂も、結婚後まもなく亡くなっています。
この頃は何よりも「健康がいちばん!」との考えがあったと思われます。「それなら島津家だ!」と白羽の矢が立ち、「いい娘さんがいたら是非よろしく!」と頼んでおいたのであります。実際に結婚するまで6年もかかっています。安政の大地震とかイロイロあってしょうがなかった。ええと、嫁入り道具その他必要なもの一切を、島津斉彬に命じられた西郷隆盛が選んでいます。で、江戸城総攻撃のとき、「天璋院篤姫」から、一通の書状が官軍隊長(西郷隆盛)宛てに送られます。このあたりがクライマックスでしょうか。
さて、なぜ島津家からの嫁とか養子は健康だったか? 筆者の推論を書きます。簡単に言うと食生活が違っていたからであります。栄養学の話ですが「薩摩は日本か?」というくらい食べるものが違っていました。栄養状態がよかったのであります。「食文化マニア」の筆者としては黙っているわけにはいきません。薩摩は言語・風習が特異なところでして、日本列島最南端のエキゾチックなところであります。日本の他の地域では、豚など「獣肉食」はタブー視されていましたが、薩摩では公然と食されていました。オノコロ飯といいまして、犬まで食べております。
琉球(沖縄県)や中国の影響が強かったためでしょうな。資料として藩が定めた天明5年刊行の『諸式値定(しょしき・ねさだめ)』に「かる館・羊羹・高麗もち・まされかん(不明)・かすてら・花ボーロ・にしき糖・玉つばき・人参糖・落雁・長崎胡麻餅・最中の月・」など南蛮菓子、高麗菓子など列挙され、庶民も食べていました。さつま揚げ(鹿児島県ではツケアゲという)は、琉球の「チキアギ」からで、もとは中国南部や東南アジアの料理とか。熱帯アジア系のニガウリ・トウガン・ヘチマなども良く食べていたとか。
米が十分ではなくサツマイモを良く食べます。一般的にはサツマイモが主食ですから、まず脚気にはならないでしょうね。天璋院篤姫は、正室になってからも「味噌は薩摩の赤味噌」でないと駄目だった。日本の他地域とは少々異なる食文化の場所にいたようです。歴史とはホントに妙なことで動くものです。
参考本:『天璋院篤姫
のすべて』 芳 即正著 新心物王来社 2007年
