(253)日本の地震史 | 江戸老人のブログ

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(253)日本の地震史


お忙しい方は最後の結論だけを・・・・・・なお文字制限があるため2回に分割します。保存版としてお役にたてればと願います。
 

 地震に関する本を読み、地震のあまりの多さに、改めて驚かされた。古墳の調査でも国宝クラスの遺跡に砂洲(さす)や噴砂が多く発見されるという。これにより、概ねの時代と地震の大きさが推定できるらしい。「地震考古学」といわれる比較的新しい学問という。これで文字情報の空白が埋まるという。
 日本には、過去千数百年にわたる「地震の文字記録」が遺され、この間に起きた地震の年月日や被害を知ることができる国だ。
 
 地震には二種類があり、プレート形 断層形(活断層)とがあるという。もっとも「大正の関東大震災」は両方が重複しているらしい。おおむねのパターンがあり、今回、東日本大地震のM9.0大震災となると、あちこちを刺激し、他のプレート形、あるいは内陸の活断層など、さらなる地震を起こさせるらしい。

南海地震の有史最古は
 『日本書紀』に天武天皇13年(684)の御世、10月14日(新暦では11月29日)に発生した地震の記録があり、「午後十時頃に大地震が起きた。国中の男女が悲鳴を上げるごときで、山が崩れ河が湧いた。諸国の官舎、百姓の倉屋、寺塔神社、の破損は数え切れない。
 人民と家畜が多く死んだ。伊予の湯(伊予温泉)が埋もれて出なくなった。土佐の国の田畑,約10平方キロが沈没して海になった。太平洋沿岸に津波が押し寄せ高知平野が沈降して、道後温泉の湯が止まった。」すると、この地震はプレート境界で発生した巨大地震と考えられている。
 

 これは「南海トラフ」というが、M8クラスの地震が幾度も発生しているという。(参考:三陸沖トラフ、相模トラフなど)紀伊半島の西半分で発生する地震を「南海地震」とし、東半分で発生する地震を「東海地震」と呼ぶという。1946年(昭和21年)の昭和南海地震では、近畿南部、四国を中心に広い地域が激しく揺れ、太平洋沿岸に津波が押し寄せ、高知平野が沈み、室戸半島は南ほど高く隆起し、道後温泉の湯が止まった。このような南海地震の特徴は『日本書紀』の記述と一致する。なお684年の地震は「白鳳南海地震」と呼ばれるという。

 『日本書紀』には「東海地震」の存在を示す記述はない。しかし、静岡県の中・東部や愛知県の遺跡から、七世紀後半に激しく揺れた痕跡が発見され、「白鳳南海地震」と同じ頃に「白鳳東海地震」も発生した可能性が高い。
 


貞観地震(じょうがん・じしん)
 今回のM9.0は、貞観地震以来といわれるが、貞観地震は二回発生した。863年7月10日(貞観五年六月十七日)に越中、越後で激しい地震があり、868年(貞観八年)八月三日(貞観十年七月八日)につき、『日本三大実録』には、「播磨の国司の報告」として、この月の八日に大きな地震があり大きな被害があったと記され、また869年七月十三日(貞観十一年五月二十六日)の夜、陸奥国(東北地方)で大地震があり、倒れた人は起き上がることができず、あるいは家が倒れて圧死し、地割れに埋って死に、建物は崩れ落ち、海水が怒濤となって多賀城(たがじょう)の城下まで押し寄せ、溺死者が千人ばかりなどと書かれているという。

宮城県沖で発生した「巨大地震と津波被害」の記録だが、東北大の研究者らが、仙台市、相馬市の海岸から数キロほど内陸の地点で、津波で運ばれた堆積物を確認しているという。その後、仙台平野で「海岸から二・三キロまで津波が遡上(そじょう)したことが明らかになった」とあり、今回とほとんど変わらないようだ。

 すべての時代を記すのは不可能だから、江戸以降の大地震に限って記します。地震の合間を縫って祖先たちが生活し、歴史を作ってきたごとき錯覚に陥る。


1. 会津地震 1611年 9月27日午前八時頃(慶長十六年八月二十一日)
激しい揺れで城の石垣と塀が崩壊。殿守は破壊して傾く。死者三千数百人。越後街道消失。

2. 仙台周辺地震 1611年 12月2日(慶長十六年十月二十八日)三陸沖でM8クラス。地震動に比べ津波の規模が大きい津波地震。伊達藩死者1783名牛馬85頭。南部津軽藩死者3000余。

3. 仙台付近の内陸地震 1646年 6月9日午前八時頃(正保:しょうほう:三年四月二十六日)仙台城大手門の櫓下の石垣、大手門東脇石垣、西裏門石垣など崩壊。死者多数。

4. 寛文近江・若狭地震 1662年6月16日(寛文二年五月一日)雨の中、午前十一時頃、地鳴りと共に地面が激しく揺れ始めた。直後、葛川谷(かつらがわ・たに)の山腹土砂崩れ。約300人が生き埋め。火事が出てあたり一面消失。琵琶湖西岸一帯、壊滅状態。現・彦根市で城が歪み石垣600間ほど崩壊。千軒あまりの町屋崩壊。水害が甚大。

5. 日向の外所(とんところ)地震 1662年 10月31日(寛文二年九月二十日)午前零時頃激しい揺れ。佐土原藩では場内で30件の長屋が崩れる。地面が幅三尺(約一メートル)ほど割れる。田畑も少なからず損なわれ山が崩れた。800軒余り崩壊。津波が襲う。海岸付近の低地、広い部分が海となる。延岡藩の『延陵世鑑(えんりょうよかがみ)』には、「海辺の田畑、海となる事およそ七・八千石余。地震後は、三・四尺海底となる」日向灘の海底を震源とするM7クラスの大地震と推定。この地震を忘れぬため50年ごとに碑が建て加えられ続ける。2007年九月、七番目の碑、供養祭。 

6. 高田地震・越後騒動
 1666年2月1日午後四時過ぎ(寛文五年十二月二七日)に強い地震が発生。『殿中日記』には城の門や櫓が残らず潰れ、残った家もことごとく大破。侍の家は700軒が潰れ、夜中には火事となり侍三十余名が死亡。町屋での死者は数え切れず。犠牲者数は、千数百人。『慶安元禄間記』には、城が残らず壊滅、「大手一の門」など崩壊。炬燵や台所から出火し燃え広がり、人の背丈の三倍近い高さに積もった雪の壁が逃げ道を遮った。長く延びた「つらら」がとがった刃物となって落下、多数が体を貫かれて死去。噴砂、墳泥が雪の上に流れ出し、家を失った人々は雪の上に建てた小屋で寒さに震えた。この後、お家騒動あり。

 

7.日光地震と五十里洪水
会津若松から南へ、大内宿、田島、山王峠、五十里(いかり)から今市への道(この道は明治十一年英人女性イザベラ・バードが歩き『日本奥地紀行』の一部として登場する。筆者も訪れた)。
 1659年4月21日(万治2年2月30日)に強い地震が田島宿を襲った。197軒倒壊。街道一の難所山王峠が大きく崩れた。塩原温泉では元湯温泉の一部が地滑りで埋った。その後田島宿は水路の両側に旅籠が並ぶ整然とした宿場となった。二ヵ月後に通行可能となる。

 

1683年(天和三年)に栃木県日光付近が揺れ続け、6月17日・18日(五月二三日・二四日)日光東照宮付近の宝塔、石灯籠など文化財の大半が崩れる。10月20日午前9時頃(九月一日)は特に激しく、日光からおよそ20キロ北北東にそびえる戸板山(現・葛老山、標高1123メートル)が大音響と共に崩れ落ちた。
 滑り落ちた岩塊は牡鹿川と湯西川の合流地点を埋めた。出口を失った水は巨大な湖として膨れ上がり、会津西街道の五十里宿を水没させた。五十里村の家々は残らず水上に浮かんだ。湖の水位を下げるため、のべ7000人の人足動因。修復を試みたが効果なし(江戸の業者が請け負ったが断念)。
 1723年の大雨で湖の出口が大音響と共に崩れ落ちる。40年の間人々を悩ませた湖水は、怒涛の勢いで流れ下り、鬼怒川周辺の村々を押し流した。この「五十里大洪水」では千数百人の命が失われる。200年ほど後の1956年、日本最大の人造湖「五十里湖」が難工事の末に完成。


8、元禄関東地震
   1703年12月31日午前二時頃(元禄十六年十一月二三日)関東地方南部の広い地域が揺れた。土地は二三寸、所によっては五六尺も割れ、石垣は崩落、塀は崩れ家蔵は潰れ、死者けが人が一時にでき、老若男女の泣き叫ぶ声は大風のごとく。所々から火事起きる。品川の海(東京湾)から大津波打ち上げ、浜へ逃げたもの、ことごとく波に巻き取られる。
   房総半島東端の犬吠崎から、伊豆半島南端の下田にいたる範囲は津浪に襲わる。安房小湊(あわこみなと)で570軒、御宿で440軒、下田で500軒流される。
  特に被害が著しかったのは震源となった相模湾周辺。小田原では地震によって家屋倒壊の後に焼失し、多人数亡くなる。小田原から箱根までの道筋には大石が転び落ちた。川崎から箱根宿まで潰家多数。宿場は残らず破損。
  江戸では地盤が強い大名屋敷は被害少なし。沖積低地(下町)で被害甚大。
   この地震は相模湾(相模トラフ)に沿ってのプレート境界から。1923年の「大正関東大地震」に対し、「元禄関東地震」と呼ばれる。相模湾北部発生の大正関東地震規模はM7.9程度。元禄関東地震はM8.2程度で、元禄期のものがはるかに大きいという。このような地震がおおむね230年前後の周期で繰り返されて房総半島の波食台(はしょくだい)を形成しているという。
波食台とは?
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fl-fg/08_sea/08-09_wave_cut_terrace.htm


9.宝永地震  
1707年10月28日午後二時ごろ(宝永四年十月四日)「元禄関東地震」の四年後、南海トラフの全域で、プレートが一気に破壊された。「東海地震と南海地震が同時に発生」した。「宝永地震」と呼ばれる。
太平洋に接した浜松城下では、潰家71軒、半壊28軒、大破52軒、小破48軒の被害。「明応東海地震」のとき浜名湖と海がつながった今切では、渡船が被害を受け通行不能。
 四国では高知城下の被害が、流家一万一千百七十戸、潰家千七百四十二戸、死人1844人。太平洋沿岸の集落は大津波に流され、古文書には全滅を意味する「亡所」の二文字がある。この地震で、城下の周囲六・七里の大地が七尺ほど低くなった。反対に津呂・室津のあたりは七・八尺高くなった。(『土佐古今大地震記』)神社の階段全42段のうち下から39段までが津波に浸かった。愛媛の道後温泉は145日間湯が出なくなった。讃岐(香川県)では五剣山の東端が大音響と共に崩れ落ちた。火事が発生しほとんどが焼けた。
 この地震では、大阪湾にも津波が押し寄せ、市街の川や堀をさかのぼり、道頓堀の日本橋(にっぽんばし)まで、迎船六・七十隻が沈没、50石、70石の舟は大船に押し倒されたが数は無数。日本橋(にっぽんばし)西の橋が落ち堀江川で橋が落ちた。


安治川筋では堂島田蓑橋まで落ちた。鰹座は死人が夥しかった。
 尾張藩御たたみ奉行・朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』に詳しい体験談が記されている。「揺れが収まらないので裸足で庭に飛び降りたところ、地震が倍の強さになり、書院の鳴動が夥しくなった。木々はざわめいて大風が吹くようで、大地は揺れて歩くことができない」、などとある。「ようやく鎮まり座敷に上がると、三の丸が火事になっていた。手酌で三杯酒を飲んで、急いで帰宅し両親と家内の安否を確認してから城に向かった」、という。
 地面が割れ、泥水が噴出した。寛文二年の地震(近江・若狭地震)より激しく長かった。

 「他の資料」土佐の国では高潮が城下まで侵入、紀州の尾鷲町では家、千軒余が流れ男女が残らず死んだ。大阪では川口にあった数百隻の大船が津波で道頓堀芝居下や日本橋の下まで押し寄せた。
 宝永地震の49日後、12月16日に富士山の山頂から南東方面に下った位置にある宝永火口から噴火、すべての村々が火山灰に埋もれた。新井白石の『折たく柴の木』に詳しい。江戸でもすべてが火山灰で白くなった。また新田次郎の小説『怒る富士』に詳しい。


10.長野・福島・津軽の地震
 吉宗が将軍となって二年後、1718年8月22日午後二時頃(享保三年七月二十六日)長野県南部の天竜川沿いを強い地震が襲った。下伊那郡南信濃村(現・飯田市)と天竜村に大被害が生じ、石垣や建物は倒れ、直後に山崩れに襲われた。和田宿では、背後の盛平山(せいへいやま)の西端が崩れ落ち川をせき止めた。上流側に生じた湖は、しばらくして決壊、濁流が下流地域を襲った。家々の損傷が酷かった。
 
 1731年10月7日午後八時頃(享保十六年九月七日)、福島県北東端から宮城・山形両県にかけ強い地震が発生。激しく揺れた桑折(こおり)では、仙台・山形方面に向かう84の橋が落ち300余の家屋が倒壊した。小原温泉が土砂に埋った。
 1776年3月8日午後六時頃(明和三年一月二十八日酉刻)には、青森県弘前付近から津軽半島一帯を巻き込む地域が激しく揺れた。倒壊した人家は5490余、圧死者は千余人、火事で焼死したものは300余人、死んだ馬は440頭と『津軽藩史』に記録がある。
 

 弘前藩の『封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん)』には、雪が深い寒い時期だが、此日は寒さが和らぎ春めいていた。六つ時、北西の方向から鳴動し、百千の雷のようで、大地が動揺し、しばらく止まなかった。怪我で死傷したものが夥しく、家ことに幼少の女童たちの悲鳴や号泣する声がかまびすしく、鶏犬猫の類までが東西に駆け走った。そのうち潰屋から出火、四方に火の手が上がった。地面が割れて砂が押しあがった。地面の割れ目に子供が埋り込んだことを聞いた。沖積低地では、液状化現象が顕著だった。津軽平野の東縁に沿って南北に延びる津軽山地西縁断層帯から生じた可能性が高い。


11.八重山地震津波
 日本の最南端に目を転じると、1771年4月24日(明和八年三月十日)に、沖縄県の石垣島を中心とする八重山諸島に大津波が押し寄せ、死者・不明者が一万二千人に達した。地震動による被害はなく、東方沖海底で発生したM7クラスの津波地震と考えられる。



12.島原大変肥後迷惑
 1792年一月八日(旧暦)雲仙普賢岳が不気味な活動を始めた。十月頃から地震が続き、頂が崩れ、年が明けた寛政四年(1792)深夜、轟音と共に噴煙が立ち昇った。 
二月になると、中腹から赤茶けた溶岩が流れ出し、炎が空を焦がした。三月一日(旧暦)深夜に大きな地震によって前山の斜面が崩れ、城内でも地割れが生じ、領民たちの間に動揺が広がり、近隣の各村へ避難する者が相次いだ。
 五月二一日午後六時頃(旧暦四月一日酉刻)はるかに大きな地震(M6.4程度)が二回続き、大音響と共に前山が大きく崩れ落ちた。海より波が打ち寄せ、城の下の数千の町屋、神社、仏閣がひとつも残らず、つかの間に押し流し、人はみな波に溺れて死する。
  標高700メートルにおよぶ前山の南東部(天狗山)で、幅一キロの範囲が崩れ落ち、土塊が島原城下町を巻き込みながら有明海に流れ込んだ。島原湾は地中に埋り、海面には九十九(つくも)島とよばれる流山が点々と頭を出した。
  城下は目を覆うばかりで、人々は家屋や木材に挟まれ、あるいは土に埋った。怪我人が多く手のうちようもなくやがて息を引き取ったという。
 有明海に流れ込んだ土塊は海水を圧迫し、対岸にあたる肥後藩の海岸を襲う大津波となった。犠牲者数は4653人とある。
島原藩で一万余、肥後藩で四千数百の命を奪った大惨事は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた。
なお、二百年の歳月を経た1991年に普賢岳が活動、同年六月三日の大規模火砕流により、報道関係者など40余名が犠牲となった。


13.金沢地震
 1779年6月29日午後四時過ぎ(寛政十一年五月二十六日)、金沢城下が地震に直撃された。加賀藩の町奉行の日記『政隣記(せいりんき)』によると、大山が崩れるように鳴動し樹木は幣を振るようになり、家はさまざまな方向へ傾き、屋根に重石としておいた「屋根石」は一尺(30センチ)ほど飛び上がり、地面は大波のようにうねった。煙草を三服吸い込むくらいの短い時間だった。築山の石灯籠は六尺ほど飛び上がり、落ちるときは四方に飛び跳ねた。上下動が顕著だった。
 その他多くの記録があり、丈夫な金沢城の石垣は堀へ崩れ落ち、残った石もはみ出して無残な姿をさらした。
 地滑りに伴う地割れが続き、門から下へ通じる坂道は亀甲(きっこう)のように、ひび割れた。この他多くの場内にあった長屋(下級武士の住居)が残らず倒れた。
 城下では数々の沖積層に建つ家々が倒壊、多くの土蔵が水路に落下した。金沢城のある台地では崖側の家々が犠牲となり、多くの家が崖下に落ちた。崖下では幅三尺余りの地割れから噴き上げた水が一丈(約3メートル)もの高さに及んだ。
 郊外では多くの集落が、地滑りや液状化現象による被害をこうむった。黒津船神社では一家が全滅したが、幼い子を抱いて逃げ出した妻は九死に一生を得た。
 石川県埋蔵文化財センターが調査した金石の普正高畠(ふじょうたかばたけ)遺跡では、最大幅30センチの砂脈が発見されたという。当時の地面からの深さ約一メートルに堆積していた砂礫層が流れ出し、江戸時代中期の地層を引き裂き、江戸時代末期の地層に覆われていたという。


14.象潟地震(きさかた・じしん)
 1689年春、芭蕉は曾良とともに「みちのく」へ旅立った。夏の盛りに酒田に到着し、夕刻に象潟(秋田県にかほ市)に足を踏み入れた。この優雅な地を楽しんだ芭蕉は、他の作品と共に『奥の細道』を刊行した。これによって象潟は景勝地となり、多くの文人などが訪れるようになった。
 

1804年7月10日(文化元年六月四日夜四ツ時)午後10時頃、ふと大地が二三尺持ち上がったように感じた。地震かな?と思う間もなく激しい揺れが襲ったが、前の揺れより百倍を超す激しさ、前後を忘れ、まるで夢の中にいるようだった。町中の多くの人が寝入っている頃で、多くの家が潰れた。外へ逃げようとしても一歩も動けず、酒に酔ったようだったという。そばに居る子供や親を助けることもできず、多くは潰れたい絵の下敷きになり、家から逃げたものは稀だった(『金浦年代記』)。
  

 太陽が東の空を明るくするころ、人々の目の前に信じられない情景が広がった。象潟に浮かんだ無数の島々が一気に持ち上がり、一面の泥沼と、その中に点在する丘と化していた。村々の新田開発による造成地では砂が吹き上がって地面を埋めた。また半潰れとなった。川を遡って津波が入り込んで一面水浸しとなった。広大な田んぼが傷み、地盤が裂けて悪臭を放つ泥土が噴きだした。
 後世、東北大学の研究者は、この地の南北25キロ以上の範囲が隆起、象潟付近の海岸も1.8メートル持ち上がったことを証明した。海岸に沿う活断層が活動し、M7.1程の地震(象潟地震)を引き起こした。


文字制限のため後篇に続きます。