(230)江戸の理数系
江戸も中期を過ぎ、独自の文化が発展すると、四書五経や儒学や国学だけでは人々の好奇心を満足させることは出来なかった。名利から距離を置いて、好奇心や遊びのため理数系が発達した。アトランダムにご紹介し、どれほどの可能性を秘めた国であったか?ご理解を賜ればとご紹介させていただきます。
医学
前野良沢(あだ名:すねもの:1723~1803)
享保8年(1723)豊前中津藩(大分県・中津市)に生まれ中津藩医。オランダ医学に関心を持ち、43歳で青木昆陽(あおき・こんよう)からオランダ語を学ぶ。藩主の支援により長崎で蘭学修得に勤めた。杉田玄白とともにオランダ語版の解剖図説『ターヘル・アナトミア』を翻訳、『解体新書』を出版。良沢は49歳で開始、完成したのは安永3年(1774)で52歳。数人の共同作業だった。場所は中津藩江戸屋敷内。「まことに櫓(ろ)や舵(かじ)のない船で大海に乗り出したようなものだった」と回想録『蘭学事始』に。高価な原書を買い込むため家計は火の車、藩医小島春庵に引き取られ、81歳で没す。業績が高く評価されたのはずっと後のことである。
前野良沢とオランダ解剖図説書『ターヘル・アナトミア』を翻訳・出版。蘭学創始者とされた。「漢方の五臓六腑図」とあまりに異なる図絵に驚き、中川淳庵、前野良沢と、小塚原の刑場で腑分け(解剖)に立会う。正確さに驚き翻訳に取り掛かった。享年85歳。
杉田玄白から蘭学を、前野良沢に入門しオランダ語を学ぶ。仙台藩医となり気鋭蘭学者として著名に。天明三年我が国最初のオランダ語入門書『蘭学階梯(らんがくかいてい=入門書)』を書き上げ5年後に刊行、わかり易く書かれたため広く普及した。
長崎に遊学後、江戸自宅に「芝蘭堂(しらんどう)」を開設、多くの蘭学者を輩出。『解体新書』の誤りをなおし、寛政10年『重訂解体新書』を著した。着手後24年後に完成。さらに28年後、この著作が世に出る。翌年死去。享年71歳。
以下、紙数が尽きるから名前と主たる活動歴を要約する。ウイキペディアなどでご参照を。
京都の碁打ちの子に生まれ、幼い頃から天文学に興味を示し、7,8歳から日の出、日の入り、月の満ち欠け、昼夜の長さ、四季の変化などに興味を示す。「北極星は不動」の教えを12,3歳の頃、「移動する」と喝破した。
寛文10年(1670)『天象列次之図』と題する天文図を刊行。北極星の周囲に北斗七星や天の川など、星座を描いたもの。
日本では中国の「宣明暦」を使っていたが、2日の誤差があり、朝廷も幕府も改暦の必要を感じていたが、春海は自ら計算し、朝廷に提出。この頃、暦は朝廷の仕事で伊勢神宮などで暦を販売、これをコピーし全国で再出版した。
朝廷は中国の新しい「大統暦」を採用、ところが五代将軍綱吉は、どちらが正確か比較させ、結果、はじめて日本人の手による暦が採用された。これを「貞享暦」という。(1846)渋川春海46歳のとき。多くの門弟を育て77歳で没す。
町の天文学者。儒者の子に生まれる。明和6年(1769)地動説を発表、なかなか受け入れられなかった。本名を綾部妥彰(あやべ・やすあき)といい大分に生まれた。子どものとき、北極星は一晩に瓦一枚分動くといった。宝暦12年(1762)暦に記されていないのに、翌年の日食を予言し、的中した。晩年は失明状態、66歳で没す。
質屋の子に生まれ、身代を大きくした。麻田剛立の弟子となり天文学を学ぶ。数学が得意で、記録を整理し、それをもとに法則を出す方程式を解いていった。計算には算木を使ったが、10畳一杯に算木を並べ計算したという。
最新の西洋暦学を伝える『暦象考成後編(れきしょうこうせい)』を入手、「惑星は太陽を中心に楕円運動をする」など、ケプラー理論を知り、師の剛立らと共同研究、大きな成果を出す。
オランダ製の天体望遠鏡を購入、観測に必要な器具を作らせた。重富が金持ちだから出来たのだ。伊能忠敬の使った測量器具もここから。また寛政暦を作り実際に使用された。
ライト兄弟の飛行は1903年だが、それより100年以上早く飛んだ。表具師となり15歳の頃、鳩の羽と体重との比率を計算、第一回の飛行を試みるが、約9メートル滑空に終わる。二回目はかなり上手くいったが、人混みに落下。捕らわれ牢に入れられたが、藩主池田治政(いけだ・はるまさ)が「面白い」とこれを許した。入れ歯作りで名をあげ、暫くおとなしくしていたが、晩年近く、阿部川の河原で店の連中に手伝わせ、グライダーのような飛行をしたという。駿府城の上を大きく旋回したというが何時のことが不明。またもや所払いになったから事実だろう。
刀鍛冶の子として生まれる。日本で初めて反射望遠鏡を造った。反射鏡の製作に多大な努力を重ねた。また太陽黒点の観測を216回行い、貴重な記録を残した。わが国初の太陽黒点観察者。東洋のエジソンとも言われる。
博物学者・オランダ語・朝鮮人参栽培・石綿(アスベスト)で火浣布(かかんぷ)を。エレキテルによる放電装置。小伝馬町牢内で没。
画家を目指すが変更し、模型飛行機、ピストル・カメラ(原始的・ダゲレオタイプ)などを造ったが、からくり茶運び人形で有名。この原理は、現在も自動車組み立て工場の内部で、エネルギーを一切使わぬ重力利用簡易ベルトコンベアーとして使用中。
からくり儀右衛門とよばれる名人。京都土御門家(つちみかどけ)で天文学を学び、和時計の技術とヨーロッパの新しい時計技術を基礎に、「万年時計」を造った。またスクリュー式・車輪式の蒸気船模型を作った。佐賀藩精錬所で日本初のアームストロング砲を完成させた。
万年時計は重要文化財。国立科学博物館蔵。2007年「愛地球博」にレプリカが展示され、100人の技術者が協力したが、精巧すぎ一部は開始に間に合わなかった。2007年機械遺産指定。銀座に「田中製作所」をつくり二代目が「東芝」として受け継ぐ。
地理学。伊能忠敬の伊能図出版まで使われた地図を作成。方眼紙方式で作成され、日本で初めて緯度経度が記入された。縮尺が正確で一寸(約3センチ)が十里を表す。伊能図が発表されたのは慶応元年と明治に近かったから、それまで赤水地図が使われた。
稲生若水(いのう・じゃくすい:1655~1715)上写真参照・左・のうぜんかつら 右 あおい 国立公文書館届出済
博物学の『庶物類纂(しょぶつるいさん)』を著す。重要文化財。中国の『皇明経世文編』に「日本は薬物を産しない」とあり、中国から輸入していた。これに疑問をいだき、加賀藩主前田綱紀(まえだ・つなのり)が協力、研究に没頭した。研究成果は元禄七年(1694)に『金沢草記録』、翌年『食物伝信纂』を綱紀に献上した。
その後『庶物類纂』に取り組み、中国の書物に出てくる動植物のうち、約1200種は日本に存在と証明。
本人も前田綱紀も世を去ったが、八代将軍吉宗が受け継ぎ、門弟らに完成させた。合計1千巻、また補巻54巻が出た。延享四年(1747)12月5日にすべての作業が終了した。若水の死後32年。
植物学。『本草図譜』を著す。日本最初の植物図鑑。植物が好きで子どもの頃から栽培し精密に写生。江戸周辺を歩き植物採集と調査。文政元年(1818)33歳で『草木育種(そうもくそだてぐさ)』上下二巻を出版。上巻は栽培の総論、下巻は穀物、野菜、果樹、薬草、果木165種を取り上げた各論。
細密な図を中心に解説、理解簡単。幕府より小石川に土地を借り、研究を続ける。『本草図譜』には2000種を超す日本の植物収録。細密な彩色図は見事だ。天保元年(1830)から14年かけて全96巻を出版。江戸期における植物分類学上の一大著作と高く評価される。本人は出版の最後を待たず57歳で没した。写真下参照。国立公文書館届出済
青木昆陽(あおき・こんよう:1698~1769)町人
日本橋の魚屋の息子として生まれ伊藤東涯に儒学を学ぶ。町奉行大岡越前の知遇を受け、享保の飢饉が西日本を襲い、甚大な被害が出たとき、薩摩芋を栽培していた九州では犠牲者が少なかった。
そこで薩摩芋の普及を図るため、吉宗は昆陽を「薩摩芋御用係」とし、他地方での栽培を命じた。小石川薬園と養生所で栽培に成功、報告書を平易な書物に書き換え『蕃藷考(ばんしょこう)』として出版、優れたマニュアル本で、数年後江戸近郊から関東、そして全国へ普及した。蕃藷とは薩摩芋のこと。
土井利位(どい・としみつ:1789~1848)下総古河藩主、大阪城代
自然科学者。『雪華図説』を著す。顕微鏡を使った細密な雪の結晶図を出版。欧米の雪結晶図と比較してまったく遜色がない。86種の平板結晶の観察図が収められている。結晶が出来る理由、観察法、雪の効用が記されている。ここから、江戸時代の「雪花紋」という浴衣の江戸小紋模様はここから。
和算数学者『塵劫記』を著す。わが国最初の算術書。京都に割り算の名人、毛利重能(もうり・しげよし)がそろばん塾を開いておりここに入門。
数学に目覚め、中国の『算法統宗』という書物に夢中になった。上巻は加減乗除を、中巻は応用編、下巻は平方根、立方根の求め方など。遊び感覚で数学にのめりこむ。『塵劫記』にはねずみ算などがある。判りやすさが受け、なんと時代を越え明治末期までベストセラー、わが国数学の基礎を築いた。
天才数学者。円周率を12桁(小数点以下11桁)まで算出、わが国数学史に偉大な足跡。日本の数式を考案した。弟子の建部賢弘『(たけべ・かたひろ:1664~1739)は小数点以下41位で数式としている。なお現在も数学に建部賢弘賞がある。
関孝和は、算木を用い高次方程式をあらわし、独特な筆算式の高等代数学「点竄術(てんざんじゅつ)」となった。甲乙丙などの記号を用い代数の計算を進めた。西洋数学に比べ七十年早い。ニュートン・ライプニッツに数年先がけた。なお、生年・没年とも詳細は不明。
数学者・暦法学者。渋川春海の下で暦法を学ぶ。八代将軍吉宗に呼び出され、暦について意見を求められたとき「日本ではキリスト教と洋書が禁じられているため、暦の基礎となる書物がほとんどないから、もし日本の暦を正確にするのであれば、禁書令を緩めるべき」と提言、吉宗は怒りもせず、意見を取り入れ、キリスト教関係を除き、洋書の輸入緩和令を出した。その後多くの洋書、漢書が入った。このときから蘭学などが始まった。
会田安明(あいだ・やすあき:1747~1817)
数学者。中国の『天元術』を2年で学びつくし、独学を続けた。成果を公表する場がなく、神社に算額(さんがく:絵馬のようなもの)を納めアピールした。安明は愛宕山に奉納、天明4年『当世塵劫記』を著す。次第に弟子が増え、数学だけで暮らせるようになったが、ほとんど外出せず研究に没頭、歩けなくなった。中国の天元術には乗法、掛け算があるだけで、除法、割り算がなかった。これを乗除自在のものに変えたが、関孝和の「点竄術」と変わりがなかった。『算法天生法指南』を書き塾のテキストとしたが、中国でも出版された。
日本はなぜ明治維新時に西洋文明と文化を即座に理解し受け入れたのかよく理解できると思います。


