(217)大震災の傾向と対策 | 江戸老人のブログ

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(217)大震災の傾向と対策



雑誌『文藝春秋』本年六月号に、「震災特集」が組まれ、敬愛する作家・吉村昭 氏のものが含まれ、そのあたりの雑感をランダムに記します。

 吉村明氏の「震災についての著作」は二冊あり、ひとつが『関東大震災 』、あとひとつが『三陸海岸大津波』です(いずれも文春文庫)。いうまでもなく、徹底的に調べて「事実こそ最大のドラマ」とする吉村氏は幾度となくこの地に足を運び、生存者の証言・資料を蒐集し、内容が正確と判断できます。

 

まず、明治二九年(1896)の三陸大津波について


 

この年の六月十五日は、陰暦の五月五日で、「端午の節句」にあたっていた。大豊漁にも恵まれ、一帯の家々では軒先に菖蒲を飾り、沸き立っていた。男の子を持つ家では、端午の節句を祝うささやかな酒宴が開かれていた。また日清戦争から帰還した将兵たちの祝賀会も、各町村で催されていた。多くの花火師が招かれ、日没後には花火が夜空を彩る予定になっていたという。
 

 午前と午後に、かすかな地震があった。だが、人々が気づかぬほど微弱なものだった。またその日に、午後の干潮時は、稀なほどの大干潮が見られ、井戸の水が著しく減少した。
 
 宮古観測所では、午後七時三十二分三十秒に弱震を観測、それは五分間の長さにわたり、次いで同五十三分三十秒にも弱震をとらえた。人々は振動のやむのを待って再び杯をもちあげたが、八時二分三十五秒にはまた大地がゆったりと揺れた。この弱震があって二十分ほどして、闇の海上では戦慄すべき大異変が起こり始めていた。
 

突然に沖合から「ドーン・ドーン」という音響を耳にし、あるものは雷鳴かと想い、あるものはロシア 海軍の攻撃かと思った。(中略)
 黒々とした波の壁が三陸海岸一帯を圧し、波の壁は屹立した嶺と化した。すべての家々を飲み込み、かろうじて波から逃れた人々の身体を容赦なく沖合へと運び去った。
 

世界地震史上第二位、「日本最大の津波」が三陸海岸を襲った。津波の回数は翌十六日正午までに大小合計「数十回」に及んだという。津波の高さは10から15メートルとされているが、吉村昭 氏が岩手県田野畑村で出会った古老の記憶によると、津波は50メートルほどの高さにまで押し寄せたという。(崖下の海水が崖上まで到達したらしい)
 青森・岩手・宮城の三県だけで二万六千人以上の死者が出た。人口が現在より少なかったことを思えば、東日本大震災を上回る被害ともいえる。岩手県釜石町では人口六千五百のうち、じつに五千人が犠牲となった。



放置された死体

 かろうじて死を免れた住民たちは、世の白々空けると共に村落の光景を眼にして身をふるわせたという。
 村落は、荒地と化していた。海岸線に軒を並べていた家々は、跡形もなく消えていた。住民たちは津波の再襲を恐れながら、丘から海岸へと降りていった。見失った肉親の安否を気遣って彼らはあてもなく海岸をさまよった。

 死体がいたるところに転がっていた。引きち切られた死体、泥土の中に逆さまに上半身を没し両足を突き出している死体、破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、波打ち際には、腹をさらけ出した大魚の群れのように裸身となった死体が一列になって横たわっていた。
 所々、海岸の窪みにたまった海水の中には、多くの魚が跳ねていた。住民たちは飢えに目を血走らせ、それらをとらえ貪り食った。


 

 梅雨期の高い気温と湿度が、急速に死体を腐敗させていった。家畜の死骸が発散する腐臭も加わって、三陸海岸の町にも村にも死臭がみち、死体には蛆が大量発生しておびただしい数のハエが飛び交った。やがて、山間部の村落から有志による救援隊がやってきて、乏しいながらも食料が生き残った人々に支給された。だが、死体を取り片づけるには労力不足で、死体はそのままに放置された。生き残った村人に原因不明の病気が蔓延し始めた。

 

 大津波の発生した翌日、六月十六日午後三時、災害発生の電報がようやく東京の内務省に入電した。内務大臣は急いで明治天皇に奏上、侍従らがあわただしく宮城・岩手両県に出発した。
 

 仙台の第二師団では、「津波の報」を受領と同時に多数の軍医を災害地に急行させ、治安維持のため憲兵隊も派遣した。(日本の各大震災にあっては、結局は軍隊の派遣なしには何も解決しなかった・・・・・・永井龍男氏著作集より)また工作隊員多数も死体処置その他の目的を持って出動、海軍では軍艦「和泉」「龍田」「筑紫」の三艦を派遣、海上に漂流している死体の捜索にあたらせた。
 ようやく災害地にも、本格的に救助の手がさしのべられ、腐乱した死体の処理も始まった。が、葬儀などをおこなうような状態でなく、死体は流木の上に一まとめにして載せられ重油をまいて焼かれた。

 

 死体の多くは、芥や土砂の中に埋もれていた。生き残った住民や他の地方から応援に来た作業員の手で収容されていたが、掘り起こしても死体の発見されない場合が多い。そのうち経験から死体の埋もれている場所を的確に探し出せるようになった。死体からは脂肪分がにじみ出ているので、それに着目した作業員たちは地上に一面に水を流す。そして、ぎらぎらと油の湧く箇所があるとその部分を掘り出し、埋没した死体を発見できるようになった。
 

 海岸には連日、死体が漂着した。人肉を好むのか、カゼという魚が死体の皮膚一面にすいつき、死体を動かすとそれらが一斉にはねた。
 また野犬と化した犬が、飢えにかられて夜昼となく死体を食い荒らして回った。住民が犬を追い払おうとすると、逆に歯をむき出して飛びかかってくる。犬は集団化し危険も増す一方なので野犬退治が各所で行われた。

 

ここまでをまとめると、


地震の強さと津波の高さは無関係だ。いわゆるリアス式海岸だと、岸に近づいた津波は周囲が狭まるから水位が高くなる。すると同じ津波でも、場所により津波の高さは異なる。
 

 また、津波とは海底の上下運動の結果だから、地震で上下にずれた海底面Aと海底面Bとの差が津波の大きさの始まりとなる。もしABに上下関係がなく、単なる横ずれだけならば、どんなに大きな地震でも津波は発生しない。また、「スロー地震」というのがあり、海底面ABが非常にゆっくりと上下にずれると、地震の揺れは大したことはないが、上下の差は発生するから、もちろん津波が発生する。ここに記した明治二九年の三陸地震、が代表的な地震であり、また1771年4月24日(明和八年三月十日)に、沖縄県の石垣島を中心とする八重山諸島に大津波が押し寄せ、死者・不明者が一万二千人に達した。このときも地震動による被害はなかったとされる。東方沖海底で発生したM7クラス 津波地震 、つまりスロー地震の結果と考えられる。
 以上を総合すると、津波情報を得た場合は、「念のため、無駄と分かっていても高い場所に避難する」ことが身を守ると理解できる。



日本での大震災では、軍隊の力がないと最終的に終結しない。また軍隊の運用がヘタだと、どうしようもなくなると言う。



東日本大震災は、福島第一原発からの放射線に対する不安が優先し、現実の凄惨さを薄めてしまっている。なぜならテレビなどの映像は、ナマの死体や、バラバラのご遺体、腐乱死体は写さない。自衛隊員はじめ報道関係者など、関係者の多くにPTSDの発症が見られる事実は、死体回収や作業の凄惨が、メディアの映像からは国民には全く伝わらない。単に大津波の激しさや甚大な破壊力だけが印象に残り、実像は伝わらない。

 

 政府の対応とマスメディアのほとんどは最低だった。しかし自衛隊諸氏などの的確な判断で事態が動いた。米軍からの援助申し入れがあったというが、自衛隊に相談すべきだった。人々は不安だから余計に放射線などを気にする。しかし、百歩譲って、放射線により仮にガンを発症するとしても、数十年先の話だろう。まずは現場の凄惨さを想像したほうがいい。そうでないと上手く政治利用されることになる。

 

 遅ればせながら犠牲となった被害者皆様の冥福を祈るとともに、被災者に心からのお見舞いを申し上げます。また自衛隊員諸氏、警察官のみなさま、海保の俊英たち、その他関係者の皆様、国民の一人として心から感謝申し上げます。                                                          

                                  以上