台湾の歴史(全10回予定)(その八)
七部構成予定でしたが、アメブロの文字数制限で10部になります。申し訳ありません。
奇跡の経済発展
一党独裁を続けるとともに経済の再建と復興を最優先させた。「奇跡」といわれる成長を成し遂げた。(1945~50年)までインフレは一万倍だった。そこでデノミを実行し中国経済との切り離しを図った。トルーマン大統領の「台湾海峡中立化」で地理的にも中国と隔離された。台湾はもともと肥沃で豊かな国から、中華人民共和国(大陸)へ富が流れ去っていっただけだから、共産党政権との関係が無くなれば当然、豊かな台湾がよみがえる。
① 農地改革 元手いらずの改革
農民からの収奪
国民党政権は土地改革で農民に恩恵をあたえた。ただし収奪も同時に行った。台湾は砂糖の輸出で知られるが、なんだかんだと栽培農家に利益の20%しかわたさないシステムを作った。これを「分糖制」という。1975年頃台湾の人口は1600万を超えており、人口が増加している中で米の転作奨励と減反実施を行いアメリカの余剰小麦を受け入れた。結果としてパンや万頭(まんとう)が好まれるようになった。
経済再発展の要因
① 肥沃な土地と勤勉な住民
② 日本から受け継いだ遺産→日本が放棄したころすでに台湾は工業化していた。
完璧なインフラと教育、同じ頃に独立した新しい国々とは比較にならない。
③ 米国からの援助開始。年間一億ドル相当を15年間。これに加え日本からの財援助があった。
④ 国民党政権の危機意識→稼がなければ中国に飲み込まれる。そこで保税加工区を創設。
「文化大革命」が運よく台湾のためになった。「10年間の内乱」は十分な時間で、その間にインフラの近代化を図ることができた。ほとんどが民間による。
⑤ 外国資本の導入
⑥ 外国人の投資 日本が一番 アメリカ ヨーロッパ諸国
⑦ 日本の投資は台湾との合弁事業が多い。
1960年代になると、年間の農業生産は4.6%の成長率にとどまり、工業生産は15.9%、輸出は22.9%の成長率を上げた。GNPは9.2%の持続的な高度成長を見せ、物価上昇率は4.9%の低水準、「インフレなき高度成長」を達成した。低賃金で優れた労働力は外国資本主導の電気器具、電子製品、紡績衣料は花形の位置を占めた。1973年から「一〇大建設」が始動し、インフラの整備拡張と重工業化の基幹産業の建設がすすめられた。1973年と79年の2回の石油危機に見舞われたが、石油を輸入して化学繊維やプラスチック製品に加工して輸出する「加工貿易国」だった台湾には、石油危機は大した影響がなかった。1980年の経済成長率は米国に連動しており、米国マーケットに大きく依存している。
1980年代の経済成長率は8.3%を維持しているものの、成長率の低下傾向はその後の台湾経済の低迷を予兆するものだった。
特徴的なのは、ハイテク産業の育成に重点が置かれたことだ。ハイテク産業を長期的に
工業団地の「新竹科学工業園区」が操業を開始した。過去の問題を反省し、コンピュータ、電子部品、コンピュータソフトなどの情報処理産業と、精密機械、農業機械、自動車部品、電気器具などの機械産業が、戦略的な産業となった。90年代はハイテク産業を軌道に乗せ、技術先進諸国に匹敵する競争力の確保を目指している。
台湾経済の問題点
1952年以後の台湾は「奇跡」とも呼ばれる順調な回復を続けてきた。国民一人あたりのGNPも伸長の一途にあり、1950年の50米ドルから1988年には6333ドルに達し、世界銀行の定義する「高所得国家」となった。その後1992年には一万ドルの王台に乗った。外貨準備高は世界一となり、これは何年か続いた。2013年度は第4位程度。
① 問題は過度の輸出依存、とりわけ米国のマーケットに対する依存である。台湾は1980年以後、賃金の上昇、開発途上国の追い上げなどで輸出が低迷、特に1988年から著しい。台米貿易の不均衡から、是正を求める米国の圧力強化、輸入の自由化、関税引き下げ、サービス産業の開放、知的所有権の保護などの要求を突き付けられ「台湾元」の切り上げをやむなくされている。1989年には、「一般特恵関税の適用」を取り消され、台湾の対米輸出競争力は大きく低下した。台湾は輸出先の分散に努め、過去の社会主義国家への輸出も本格化させたが、米国のマーケットに代わるほどではない。共産党中国への輸出増大が深刻な問題となるだろう。
② 中小企業が経済の担い手であることも問題であろう。台湾は「中小企業王国」といわれ、1988年における中小企業は97.72%が中小企業だ。しかし、理屈はそうであっても韓国のように現代とサムソンなどが、大企業が収入の50%を超すような状況は感心できないと筆者は考えている。日本もほとんどが中小企業であり、故にたゆまぬ技術力を保持して、大きな富を得ている。中小企業はよくないとは簡単には言えないだろう。
③ 「日本の下請け構造」も深刻な問題だ。台湾の輸入は、長らく日本が第一位を続け、対外貿易赤字も日本が第一位である。およそ台湾の輸出製品の部品や原料の80%までを日本から輸入しており、台湾の輸出が増大すれば、対日貿易赤字も増大する。また、台湾が得た貿易黒字の大半は対日貿易赤字を埋めている。
日本の通産産業省は台湾に対する貿易黒字を縮小する為に、台湾にハイテク産業の移転を促進し、製品を日本に還流させることを期待しているが、この「下請け構造」は容易には改善されない。台湾からの優秀な人材を筑波研究学園都市など最先端研究所に招き、最新技術を共同開発するなど、十分対応が可能ではないかと思える。
④ 外交的孤立
国民党政権は「中華民国(台湾)は唯一の中国」の虚構を堅持している。1971年に中華人民共和国が国連に復帰したのを契機に、米国、日本を含め国際社会のほとんどの国々が共産党中国と国交を結び、中華民国との国交を断絶した。台湾と断交した国々の多くは、台湾との間に非政府間の関係を維持しており、たとえば日本の場合は、台湾に「交流協会」の事務所を、台湾は日本に「亜東関係協会」の代表を置いて実質的な交流を行っている。国交がない国との経済交流には多くの障害が付きまとう。このような悪条件のもとで世界13位の貿易国家に成長したことは称賛に値するが、外交的な孤立が続く限り台湾経済はその影響からまぬがれない。
⑤ 大衆貿易の増大傾向
1980年代に至り中国との敵対関係は改善に向かい、1987年からは、台湾住民は中国旅行ができるようになった。中国への投資も活発化し、香港を介しての中継貿易は年を追って拡大されている。中国との貿易は急増傾向にある。対中貿易は圧倒的に台湾の出超である。中国政府は「台湾は中国の一部」であり、いずれは「統一」すると主張している。(筆者は市民の近代化と民度が違いすぎ、統一などは無理と見ているが・・・・・・)中国マーケットに依存することは、中国経済に飲み込まれる危険性をはらんでいる。しかし中国経済がこのまま成長を続けるとは思えない。
急テンポで進む民主化
台湾関係法
1971年キッシンジャーの秘密訪中と、ニクソン大統領の訪中発表から三か月後、台湾は国連を脱退した。米国政府は台湾を見捨てたわけではなく、国内法に「台湾関係法」を制定している。国交を断絶した国を対象とするこの法律は、極めて異例であり、外交史または国際政治史で初の試みといえる。外交がない国との国交を「法律テクニック」で持続続させている。米国政府は金門と馬祖は台湾の地図には含まれないとし、国民党政権の次の政権を視野に入れている。制定された当初は台湾も反発したが、現実的な観点からこの法律に対する認識を変え、国交を断絶した日本やフィリピンなどへも、米国にならって同様の「台湾関係法」の制定を期待している。
「台湾関係法」は①中国の武力侵攻と、②国民党政権による台湾住民の人権を守ることを約束させている。1985年にレーガン大統領が署名した「外務授権法」には、「台湾における民主主義」の項目があり、③台湾が民主主義に向かうべく強く期待している。
つづく




