(202)残虐中国 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。



 


(202)残虐中国

 

 平成十一年度の菊池寛賞を受賞した「毛沢東秘録」は、汲めども尽きずといいたいほどの読み応えのある、興味津々のすぐれたドキュメントだと、敬愛する作家の阿川弘之氏が随筆の中で褒めている。「お付き合いしたくない国」と考える筆者にも、どうしてか?の理由を正確に教えてくれる。
 

 北京から追放され三十二年の産経新聞社取材班が実に苦労して編んだものだったことにも、感慨を覚えるそうだ。ナルホドと感心した箇所を氏の随筆から引用させて頂きご紹介させていただきます。


引用開始
 すさまじい秘録の中でもとりわけすさまじいのが、国家主席 劉少奇のいびり殺される場面であろう。毛沢東から名指しで「裏切り者」と認定された劉と劉夫人の王光美は、批判大会に引き出されて、紅衛兵たちの罵声を浴び、殴られつづける。真夏の「批判台」に立たされて、公衆の面前で二時間にわたり、「ジェット式縛りあげ」という拷問を受ける。

 

 やがて党からの「永久除名」処分となり、軍用機で河南省開封へ移送、監禁されるのだが、その折の劉少奇は裸のまま軍用毛布に包まれ、担架に乗せられていたという。

 「それから一ヶ月もたたない十一月十二日(1969)午前六時四十五分、劉少奇の七十一年間働き続けた心臓は鼓動を止めた」。場所は開封市党委員会が管理するコンクリートむき出しの倉庫部屋だった。「かっては国家主席をつとめた人物の遺体は『劉衛黄』という偽名で『無職』の老人として荼毘に付された。劉少奇の死は公表されず、家族にも知らされることはなかった」
 

 偉大な舵取り毛沢東同志のお墨つきで、紅衛兵たちの「裏切り者」いびりが始まった頃、劉は早くも死を覚悟したらしく、王光美夫人に遺言を口述する。
 「私が死んだら(マルクスの盟友)エンゲルスのように遺骨を海にまいてくれ。大洋から全世界が共産主義を実現するのを見守っていたい」との遺言で、この遺言に阿川氏が驚いている。  

 

 死後、記念碑や大きな墓を望む権力者が多い中で、劉少奇の人柄を推測させる言葉だが、それにしてもこの人は、これだけひどい目にあわされながらいまだ、マルクス・エンゲルスの紡ぎだした美しい夢の実現を信じていたのか、せめてあと二十年生き延びていたら、「全世界」が共産主義から脱却するのを「見守る」ことができたのにと思う、と書いている。

 

 劉少奇の遺言そのものは、毛沢東が死んで江青ら四人組が逮捕されて四年後、遺族の手で実行に移される。開封(地名)の火葬場に保管されていた劉少奇の遺灰が見つかり、それを抱いた王光美夫人と子供たちが北海艦隊の一隻に乗艦、半旗を掲げた艦上から、二十一発の礼砲とともに青島沖の海へ撒かれたという。

 

 二十一発の礼砲は「ロイヤル・サルート」といって、直訳すれば皇礼砲、国家元首に対する儀礼である。名誉回復された劉は、もとの地位が地位だからそれだけの処遇をしてもらえたのだが、痛めつけられる模様もようすも、まったく歴史記録にとどめぬまま、「造反有理」で殺されていった「人民」が何百万、もしかすると何千万いるはずだ。劉の遺族たちは、遺灰を海に撒くとき、そのひとたちのことと、「共産主義」のありかたとについて、本当のところどう思っているのだろう。
 

 これは、あの当時文化大革命を礼賛し、「あんなもの、要するに権力闘争だろ」という相手を保守反動、人民の敵よばわりした日本の、進歩主義者たちにも一度投げかけてみたい質問である。自分たち間違っていたと認めるのか認めないのか。認めるなら、それを公表して天下に謝したことがあるか。文革には行き過ぎの面があったが共産主義そのものは依然正しいと、信じているのかいないのか。

 

 とにかく今の日本はこじんまりした安穏なお国柄で、だんまりを極め込んでさえいれば、誰も彼らを「批判台」へ引きずり上げて拷問にかけたり、何人組と称して逮捕抹消したりはしない。あちらは違う。

 今、北京で買える二百五十冊の書物からこれほどの「毛沢東秘録」が生み出せるなら、将来さらに、どんな驚くべき文献が出てくるか分からない気がするし、いづれ又大きなどんでん返しがあって、悪人と善人の交替劇が行われそうな気もする。
 

何しろ支那という国(チベットまで含む現在の中華人民共和国のことに非ず)は、六千年の歴史にかんがみて、愚行蛮行人殺しの面でもスケール極めて雄大な、・・・・・・あえて言うなら興味尽きせぬ面白い国だと思う。

                                   引用終了

引用図書:『葭(あし)の髄から』阿川弘之著 文春文庫 2003年