(200)大奥に勤めた男子
大奥は、将軍以外は女性だけの世界だといわれますが、大奥を職場とする男子役人もいた。「ん?そっち方面?」と余計な連想をしてはいけません。れっきとした幕府の制度にある勤務役人であります。
勤める場所は、大奥の玄関に近い「御広敷(おひろしき)」という場所でして、責任者は御広敷(おひろしき)用人、配下に【広敷御用部屋吟味役(ひろしきごようべや・ぎんみやく)】、広敷御用部屋書役がありました。
このほか、大奥出入りの門を警備する役目が、【御広敷番】の頭(かしら)がおりまして、その部下に御広敷番、御広敷添番などがおりました。
御台所(みだいどころ:将軍の正室)は、大奥の外に出ることはないため、大奥の経費を管理し、買い物その他もろもろのことを行うのが御広敷用人の仕事でありました。簡単に言いますと、御台所のため反物や装飾品、調度などさまざまな物品を調達いたします。
御広敷用人は三人おりまして、五百俵高を賜っていました。これに役料(役職手当)が三百俵ついたといいます。ほかでは徒歩頭(かちがしら)などが千石頂いておりましたから、格は御広敷用人のほうが上でしたが、役料は安かったのですね。
当然、御台所や大奥お年寄りの要求をいさめるなんてことは出来るわけがありません。そのため、御広敷用人は、万事、留守居の指示を受けて動くことになります。
【留守居】は、町奉行や勘定奉行という要職を勤め上げた者が、老齢になってつく役職で、その指示には重みがありました。とはいえ、留守居といえども、御台所のたっての頼みを拒否するなんて、これはできっこありません。
御広敷用人には、職務に精励し、御台所からとても感謝される者もおりました。諏訪三郎四郎という人は、天英院(六代家宣正室)から「そのほうは、物事にこまかに心付くものじゃ、我に万年も仕えよ」と盃(さかずき)を下されたといいます。
諏訪さんはこの後、苗字を改め、万年三郎四郎と名乗ったそうです(『明良帯録』)。この話はちょっとなあ・・・というところがありますが、なにしろ御台所のごく近くに勤務しますから、こういった機会は十分にあり、褒美を得ていたことは事実だそうです。
大奥の経費は、『御触書天保集成』によると、金六千両に、銀百貫目だと書いてある。銀五十匁を金一両として換算しますと、一年間に八千両もの大金が大奥へ使われておりました。大奥経費の名目は、「御台所様合力金」でして、つまり御台所に渡されるお金が大奥のために使われます。
ただ、御台所が自分でお金を持つわけではなく、お金そのものは御広敷用人が持ち、大奥御年寄りの指示で表使(おもてづかい)が会計を担当したそうです。
御広敷用人の前職は、御腰物奉行、奥祐筆(おくゆうひつ)組頭、新番組頭、留守居役、納戸頭、お膳奉行、賄頭、小普請組支配組頭、子納戸役などでした。どうも、表の役職よりは中奥の役職からの昇進が多かった。やはり将軍や御台所の近くに仕える役職は、そうしたコースからのほうが安心できたのでしょうか。
幕臣のエリートコースは、目付、遠国奉行、勘定奉行、町奉行ですから、御広敷用人は明らかにコースから外れているように見えます。もし昇進を望むとすれば、禁裏附き(きんりづき:京都に赴任し、朝廷の御用を務める役)や、先手頭(さきてがしら:警備隊長)あたりが多かったのですが、でも、まれには、下三奉行(普請奉行・作事・小普請の三奉行)のうち、小普請奉行や作事奉行に昇進するものもいたといいます。
ところが、文化七年(1810)年には、勘定奉行に抜擢されるものが出たのであります。『明良帯録』という幕府の制度を解説した史料には、次のように。
「近来、永田備後守(ながた・びんごのかみ)、この場より御勘定奉行に昇る。これは大奥にて稀有の働きありて、御台所様、御感悦御願いにて、この場へ昇るなり」
御台所がその働きぶりに感心し、将軍に働きかけて勘定奉行に昇進させたというのであります。
勘定奉行になった永田備後守のほかにも、古川泉守氏清(ふるかわ・いずみのかみ・うじきよ)というものが文化十三年に勘定奉行に昇進しています。
文化年間(1804~18)というのは、十一代将軍家斉の時代で、この将軍は五十人以上の子供をもうけたことで知られます。そのため大奥の経費も増加の一途をたどっていきました。八代将軍吉宗がせっかく立て直した幕府財政も、経済崩壊をはじめ、やがて幕末の大政奉還につながったと理解されています。
文政三年(1820)には、勘定奉行へ、これまで大奥定高(金六千両に銀百貫目)の定まった額のほかに、足金として年々金五百両を加えていたんですが、これでも間に合わず、その後三年間はさらに五百両を加えよ、との指示が出ています。大奥経費の増大は、御広敷用人の役割の重要度を増大させたはずと推理できます。そんな背景が、突然の永田備後守の勘定奉行抜擢への伏線となっていたと指摘されています。ようするに金がなかったんでしょう。
明治になってから、政府要人が、「金を食うのは大奥と海軍」と断言していますが、その場の皆がうなづいたそうで、そういった実感が明治の指導者たちにあったと思われます。海軍に入れ込みすぎると危ない。いえ、支那であればいいんですが。
引用本:『江戸の組織人』山本博文著 新潮文庫 平成20年
