(182)江戸時代からの一極集中 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(182)江戸時代からの一極集中

 

江戸時代はやはり色々と不便でした。その【不便の中】で人々は工夫をこらし、それなりに快適に暮らしていたようです。
 ところが十九世紀の天保年間(1830~44)に入りますと、江戸市中の暮らしに対し「自由すぎてよろしからず」とか、「自由のすぎた風俗」など、【自由(わがまま・ほしいまま)】という言葉で、「いかに都合がいいか、便利がいいか?」を述べ、「自由になりすぎた、(便利になりすぎた)」と批判する論調が、幕藩領主側(つまり体制側)から出てくることになります。

 

天保九年(1838)、老中は「江戸の人口を減らし、農村の人口を増やすにはどうしたらいいか?」と代官たちに質問しました。すると「江戸が繁盛して暮らしやすく、地方の人々を引きつけるからだ」とほとんどの代官が答えています。
 農業は「力仕事」でつらい、そのうえいくら米を作っても自分たちはなかなか米を食えない。娯楽も少ないなどなど、【農村の暮らしの貧しさと苦しさ】を強調します。

食べ物を例にすると、すでに包丁で切ってある牛蒡(ごぼう)冬瓜(とうがん)などを例にあげていますが、「欲しいときに欲しいものが手に入る」、自分で「手数をかけなくても出来合いのものがあり」、これが便利だとあります。現代のスーパーなどでは、「キンピラ・ゴボウ」を作る「皮をそぎ細かに刻んだゴボウとニンジン」のミックスが売られていますが、江戸時代にはすでにあったんですね。

 

現代はインスタント味噌汁があり旅行や急ぐときに便利ですが、江戸の長屋には朝から棒手振り(行商人)がうるさいほど訪れます。で、味噌汁は味噌がボールになって、中に味噌、出汁、ネギ、などがすでに混ざり、熱湯をかけるだけでいい。大根なども必要なだけ買えばよかった。だいたい長屋には包丁もまな板もない。八百屋さん魚屋さんが切ってくれたようです。たとえば豆腐を味噌汁の具にするときは、豆腐屋に声をかければ切って鍋に入れてくれたといいます

 

自分で作らなくてもいいもの、代表に食べ物屋がありまして、江戸風俗の参考書『守貞謾稿』によると、「江戸に盛んなるもの、すべての小売店、食店、武家調用の商人および雇夫の長、酒問屋」である。食べ物屋が非常に多く、文化元年(1804)の町奉行所の調査によると、食べ物商人は六千百六十五軒、天保六年(1835)では、「天保の飢饉」の影響もあって少し減ったものの、それでも五千七百五十七軒にのぼっています。(しかし・・・さすが日本、江戸時代からよくこんな調査・データ保存をしているものと筆者は感心します。)
 
 料理屋や飲食店は、宝暦から天明期(十八世紀後半)に増え始め、しかも鮨屋や、 屋など、やや高級な店が増え、十九世紀に入ると拍車がかかったといわれます。(原田信男『江戸の料理史』中公新書)。これだけじゃあない。先ほどの飲食店は通りに面した面店(おもてだな)の数だけでして往来の仮設店舗で食べ物を商う【床見世:とこみせ】、ヨシズ張り、屋台店などは数に入っておりません。すなわち飲食店はずっと多い。

  

『守貞謾稿』によると、表通りに面した大店の庇(ひさし)の下、大きな橋の橋詰め脇で【橋台:はしだい】と呼ばれた空き地、荷物の積み御しの場である河岸地、堀端、火除け地とよばれた空き地や土手など、人々往来の頻繁なところに、食べ物や小間物を商う床見世(とこみせ)がひどく多いと記されているとか。

 

さらに屋台について、「江戸にては屋躰店(やたいみせ)と言ひて、はなはだ多し」「屋躰見世は鮓(すし)、天麩羅を専ら(もっぱら)とす。その他、みな食べ物の店のみなり。粗酒肴を売るもあり」「菓子・餡餅等にもあれども、鮓と天麩羅の屋躰見世は、夜行(やこう)繁き所(夜人通りが多いところ)には、毎町各三、四ヶ所あり」と記されている。

夜間、人の往来の激しいところでは、鮓(鮨)と天麩羅を代表とし、すべて食べ物を商っていたとあるんですね。一町といえばおよそ100メートル、そこに三、四軒ですから、これはほとんど縁日の状態です。

 

越後(新潟県)出雲崎代官だった青山九八郎は、「往来で無益な食べ物の商売をするものが日増しに増え、商家の奉公人や諸職人たちは、妻子を養うのも忘れて飲み食いしている。夜に商売をするものも増え、夜中に食べ物の商売をしなくても差し支えないはずなのに、武家も町人も、深夜になって食べ物などを商うのは、何か理由があるのだろうか、大火事の後の夜中に(食べ物がなくて)ソバ屋が出るのとは違い、夕暮れから食べ物を往来で売っているものが多い」と状況を指摘、「自由の足り過ぎ候風俗」と批判しております。でも、「家に帰る前に軽く一杯」なんて、これは当たり前でして現代でも変わりませんね。
 
米にたよる幕府制度の崩壊
 夜中、しかも深夜に食べ物を売る店、そこで食べたり買ったりする客、現代コンビニアンス・ストアや深夜営業の飲食店を連想します。
 また備中(岡山県)倉敷の代官高山又蔵は、「江戸の町方には、屋台店が近年たくさん増え、多くは夜に営業を始め、イロイロな食べ物を並べ売っている。ここの客は武家奉公人の中間(ちゅうげん)や、商家の奉公人たちで、きわめて便利だが、中には高級なものもあり、下層のものには分不相応である、と指摘しています。

 

農村から出て武家や商家に奉公している者は、手軽で便利な生活に慣れ、買い食いの味を覚えてしまうから村へ帰りたくなくなる。そのほか近年では「和漢の品」や「金銀類の結構な細工物」なども、イロイロ出来合いで売っていて便利」と江戸市中の様子を書いています。
 両代官とも、食べ物を商う屋台が沢山、しかも夜中に出ていること、客は中間(ちゅうげん)などの武家奉公人や商家の奉公人たちだと指摘しています。夜中に手の込んだ美味しい食べ物を売っている、食べ物だけでなく出来合いのものが色々売っていると書いています。どうしても現代のコンビニを思い起こしてしまいます。
 
 こんな中で「生活が苦しかったのは武士階級」です。庶民は江戸にさえ来れば仕事があり、農家の次男、三男は、商家・武家に奉公すれば、快適な生活が待っていたようです。現代とほとんど変わらぬ便利さです。江戸で財産を貯めたところで、火事がひとつ来ればゼロ になる。ためても無駄、だったら気楽に楽しく過ごしたほうが?となります。
 そんなところから武士と武士以外 という社会とが崩壊し始めていたように思えます。一極集中がすでに始まっており、江戸へはどんどん人が集まり、一時期をのぞいて現代も同じでしょうか。
 
 江戸では、特別の技術や技能を持たなくても、田畑屋敷などの財産や資本がなくても、床見世や屋台見世の小営業などで生活ができました。つまり貨幣経済が沸騰しておりました。しかも、江戸の暮らしは、農業に比べれば楽で自由な仕事であり、町には美食や娯楽があふれ、楽しく便利だというのです。
 

 この頃から、江戸幕府が崩壊を始めていた気がしてなりません。上記の文章に「下層の者」とありますが、現実として【下層の者】のほうが武士よりも、よほど「豊かで楽しい生活」を送っておりました。

 「幕府の根幹」である【コメ本位制度】が破壊、金本位制度に切り替わっていたのでしょう。これは人々の高度教育レベル、高度な文化レベル、技術に対する尊敬心、知的好奇心、優れた社会制度が背景にあります。このあたりが朝鮮半島とはまったく逆になっておりました。ご参考までに江戸の文化水準は、数学は俳句と同じ趣味でして、たとえば円周率は小数点以下41位まで求めておりました。西欧より早かったんです。

 

これだけの社会熟成ですから、時代が変化するのが当然、言い方を換えると「必然」といっていいでしょう。それほどの経済・文化レベルに達しておりました。かような社会の完熟が、(参勤交代制度のため)一年後には北から南まで日本列島の隅々にまで伝わります。時代は明治維新へ大きく針路変更を始めていたことが汲み取れます。人々の生活の些細な変化が、江戸中期以後の大きな流れを暗示、これらを探すのが、江戸学の楽しみの一つと考えております。
 


引用本:『大江戸世相夜話』藤田覚著 中公文庫 2003年