(167)長州ファイブ | 江戸老人のブログ

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(167)長州ファイブ
 


 拙ブログのエントリ『幕末の密航留学生』を読んだ友人から、「その話は映画化されているぞ!」と資料が送られてきました。そのうちレンタルCDで見ようと思っていますが、せっかくですので多少編集してご紹介させていただきます。
 話は拙エントリをお読みいただけると簡単ですが、幕末の文久3年(1863年)長州藩から井上馨ら5名が国禁を犯して密航留学、結果とし他藩からの留学生をも含め、日本近代化に大きな貢献をしました。拙エントリでは、井上馨、伊藤博文以外は省略しましたが、映画になったほど有名ならばと省略せずご報告します。
 なお、【萩博物館】から電話で使用許可を得て、パンフレットの文章と映像をもご紹介させていただきます。余計ですがNHK出版局とはだいぶ違う印象でした。
 
 長州ファイブのパンフレット(萩博物館制作)に「密航留学はただ長州のためだけではなく、結果的には日本の近代化に大きく貢献することになったのです」とありますが、全く同感で、薩摩藩ほか諸藩からも密航留学生が海を越え、日本の近代化を予感して近代文明を得ようと行動しました。この情熱は何処から来ているのか、考えざるを得ない印象をもちました。


①【井上馨:いのうえ・かおる】初代外務大臣
天保6年~大正4年(1835~1915)
幕末の志士。明治時代の政治家。井上光亨の次男として,周防の国吉敷(よし)郡湯田町湯田村(山口市)に生まれ萩に学んだ。通称は聞多(ぶんた)。後に至道家の養子になった。文久3年(1863年)姓を井上に戻して英国へ密航留学し、帰国後は討幕運動に奔走した。
 維新後は明治政府の参与となり、明治12年(1879)外務卿となって欧化政策を進め、鹿鳴館時代を現出した。誤解があるが鹿鳴館は今でいう国際交流会館であり、諸外国との不平等条約改正に努力した結果である。明治18年(1885)第一次伊藤内閣の外務大臣となり、内務・大蔵大臣などの要職を歴任。晩年は元老に任ぜられ、実業界にも尽力した。ロンドン帰国後テロにあい、深手を負ったが九死に一生を得た。

 




②伊藤博文【いとう・ひろぶみ】初代内閣総理大臣
 天保12年~明治42年(1841~1909)
 幕末の志士。明治時代の政治家。林十蔵の子として周防国熊毛郡束苛(つかか)村(光市)に生まれた。通称は俊輔(春輔:しゅんすけ)。後に萩松本村に移住し、伊藤と改名した。安政4年17歳のときに松下村塾(しょうかそんじゅく)に入門。文久3年(1863)英国へ密航留学し、帰国後は討幕運動に奔走し、明治政府樹立に貢献した。
 明治4年(1871)岩倉使節団の副使として欧米を視察。初代内閣総理大臣、枢密院議長などの要職を歴任する一方、明治憲法の制定に尽力した。計4度組閣し、晩年は元老に任ぜられた。




③井上 勝【いのうえ・まさる】鉄道庁長官・鉄道の父
 天保14年~明治43年(1843~1910)
 明治時代の鉄道官僚。井上与四郎の子として萩城下の土原(ひじはら)に生まれた。一時は野村弥彦と称した。箱館(函館)で航海術や英語を学び(?)、文久3年(1863)英国へ密航留学して鉱山・土木工学を研究。明治元年(1868)帰国した。明治政府の鉄道頭(てつどうのかみ)となり、明治2(1869)11.10. 鉄道建設の廟議決定(東京~京都間の幹線及び東京~横浜間、京都~神戸間、琵琶湖畔~敦賀間の3支線の建設計画). 明治5(1872)10.14, 我が国初の鉄道開通(新橋~横浜間:29km)に尽力その後工部大輔(こうぶだいふ)、鉄道庁長官などを歴任して全国の鉄道網を整備、生涯を鉄道一筋にささげた。また明治29年に汽車製造合資会社を設立し、機関車の国産化にも多大の努力を重ねた。わずか4年で横浜・新橋の鉄道工事を完成させ、世界を驚かした。





④遠藤勤助【えんどう・きんすけ】造幣局長 天保7年~明治26年(1836~1  

  893)
 明治時代の大蔵官僚。遠藤彦右衛門の子として生まれた。遠藤家は美祢郡(みね)綾木(あやぎ)村に在住。
 文久3年(1863)英国へ密航留学した。慶応2年(1866)に帰国後、藩主毛利敬親(たかちが)元徳(もとのり)父子と英国艦隊司令官キング提督との会見で通訳を行うなど、外交官的な役割を果たした。
 維新後は明治政府に出仕し、造幣権頭(ぞうへいごんのかみ)へ昇進。明治14年(1881)大阪の造幣局長となり、外国人技師に頼らずに洋式新貨幣の鋳造に成功した。また局内の桜並木を「桜の通り抜け」として開放し、造幣局は現代も大阪人から愛されている。



⑤山尾庸三【やまお・ようぞう】工業(造船)の父
 天保8年~大正6年(1837~1917)
 明治時代の工部官僚。山尾忠治郎の三男として周防の国吉敷(よしき)郡二島村(ふたじま・山口市)に生まれ、萩に学んだ。
 文久元年(1861)幕府貿易船でロシア領沿海州に渡海後、箱館(函館)で洋書を学んだ。文久3年(1863)英国へ密航留学して造船技術を学び、明治元年(1868)帰国した。
 明治政府に出仕し、工部大学校(東京大学工学部前身)や盲唖(もうあ)学校の設立に尽力し、同13年に工部卿(こうぶきょう)となった。また日本工学会の会長を36年間つとめ、わが国の工業・工学の基礎を築いた。ロンドン留学中にスコットランド・グラスゴーの造船所で技術を学びたかったが、資金がなく、同時期ロンドンに留学していた薩摩藩の学生たちから義捐金16ポンドを貰って出かけた話はよく知られる。




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