(131)酒仙の実像・若山牧水
「
若山牧水
は「酒と旅の歌人」として知られ、旅に出てはしみじみと酒を飲み、歌を詠み、明治歌壇で孤高の歌人として人気を得ておりました。冒頭の歌はよく知られ、明治四十四年(二十六歳)の歌集『路上』に収録されました。中国の杜甫(とほ)や李白(りはく)を思わせる、詩情たっぷりの歌からは銘酒の芳香が立ち昇るようではないでしょうか。
しかしこの歌集『路上』は、本当は中国
歌人のような風流な心境ではまったく異なり、死にたくて、淋しくて、心が荒れており、小枝子(さえこ)という年上の女性と恋愛行をし、破綻していたときの歌集でした。この歌集には「自殺しようとして死に難(がた)し」だの「みさをなき女に涙ぐむ」だの、やけのやんぱちの歌が多く収録されております。
「酒のため われ若うして死にもせば とものいかにか あはれならまし」
「あと月の みそかの夜より乱酔の 絶えし日もなし 寝ざめにおもふ」
歌にはやたらと「さびしい」「ひとり」「泣く」「涙ぐむ」が出てきます。飲みかたも乱れ、飲むと甲高い声で歌い出し、泣き上戸を女にからかわれ、からみ酒でした。ようするに二十歳代でアルコール中毒でした。
牧水は宮崎県東臼杵郡に医者の子として生まれ、明治三十七年、十九歳で上京し、早稲田大学に入学します。北原白秋
と知り合ってから詩作を始め、処女歌集『海の声』を刊行したのが二十三歳でした。白秋らと交わるうち酒の味を覚えました。『海の声』には、
「海哀(かな)し 山またかなし 酔ひ痴(し)れし 恋のひとみに あめつちもなし」
「幾山河越(いくやまかわこ)えさり行かば 寂しさの はてななむ国ぞ今日も旅行く」
その後、あがくような人生を送りますが、女と酒は手離せませんでした。明治四十五年(二十七歳)大田喜志(若山喜志子)と結婚しました。牧水の酒は一転して安定したように見えましたが、どっこい、牧水のアルコール中毒は執拗でありました。
この年、牧水の周囲で事件がありました。①白秋が松下俊子との姦通事件で市谷未決監に拘留されたことと、②石川啄木
の死でした。
大正二年(二十八歳)九月には歌集『みなかみ』刊行。一月から二月にかけて九州沿岸を船で一周したときは
「酒後(しゅご)の身を朝日が染め、船が揺る、甲板(でっき)歩めば飛魚がとぶ」
とやけに威勢がいい。船中で酒を呑みつづけ、朝日を浴びるというのだから、これは酒飲みの本望でしょう。妻の喜志子ともうまくいっていたこともあり、この年あたりから歌壇の花形となります。
「焼酎に蜂蜜を混ずればうまい酒となる、春の外光」
と甘すぎる酒が登場し、長野県の喜志子の生家で長男「旅人」が生まれます。大正四年(三十歳)、「友と相酌む歌」と題して
「ひとしずく 啜りては心おどりつつ二つ三つとは重ねけるかも」
と絶好調ですが、しかし
「朝は朝
と、一日中酒を飲むようになり、歌作は不調でした。生活が安定し、人気が出てくると、不幸を咆哮する牧水調の絶唱・嗚咽歌(ぜっしょう・おえつか)が生まれないのです。しかもこの嗚咽歌は日本人の心をとらえ続けます。この年、長女「みさき」が生まれています。
大正六年、朝から酒を飲むので仕事ははかどらず、アルコール中毒の症状が悪化してきます。酒を自重しようと努力しますが、そう思うとかえって酒が欲しくなるのです。大正七年(三十三歳)五月、歌集『渓谷集』と七月に『さびしき樹木』を刊行。酒田から船に乗って
「耐えかねてとり出(い)だしたる酒のびん いまだ飲まねばくちもとに満てり」。
断酒をして戦うのですが、どうしても誘惑に勝てず、また飲んでしまいます。「断酒歌人のなりそこない」で、歌は不調で、評価は落ちる一方。この年、三女「真木子」が生まれました。
若山牧水
が永眠したのは、昭和三年(四十三歳)九月十七日でした。病名は急性腸胃炎兼肝臓硬変症。牧水のアルコール中毒は無残なもので、十メートル近づいても腐ったゴミ箱のような強烈な臭いがしたとされます。口中はただれ、目は充血し、酒がきれると手がふるえた。晩年の歌集『くろ土』ではアルコール中毒末期を自覚しておりました。
そうでありながら、自らを「酒仙」とし、酒を歌う詩人として西行や芭蕉のような旅と同じと演出して見せています。これが歌の力でしょう。酒を讃えるのは命がけで、現実には歌や紀行文にあるような悠々として甘美なものでは決してありませんでした。岩波文庫版『歌集』の「最後の歌」もまた酒でした。
「酒ほしさ まぎらはすとて 庭に出でつ 庭草をぬく この庭草を」
歌集の最後にこの一首を選んだのは喜志子夫人でした。この歌を選んだ理由を考えると、妻の想いにもまた哀切を覚えます。筆者はこの歌人は、ずっと長く日本人の心をとらえ続ける気がしてなりません。
引用文献:『文人暴食』嵐山光三郎著 新潮文庫 2006年
