(127)なぜ韓国は今も異常か?
民族とか国家には血潮の流れがあります。むかしからの特性といってもいいでしょう。かりに日本人であれば火事場、つまり人々が自然災害から避難し、苦難にあえいでいるときなどに略奪はしないとか、人々は冷静となり、また他人へ親切を行うなど、整然かつ冷静な人々の態度は、ついこのあいだの東日本大震災
のときも、多くの外国人を驚嘆させました。実は、大正12年だったかの関東大震災
の時も日本人の態度に驚嘆した外国人の記述が非常に多く残されています。簡単にいうと文化の系譜といったことでしょうか。
朝鮮(韓国
・北朝鮮
)はなぜ異常なのか?たとえば最近ですと韓国
と日本との男子サッカー試合後、「竹島
は韓国の領土!」と記したカードを選手の一人が観衆に見せて走り、IOCの顰蹙(ひんしゅく:というか世界の非難)をあつめたのか。世界のスポーツ祭典にそれぞれが政治を持ち込めばどうなるか?世界がビックリし「異常な韓国
」と評されました。
話が飛びますが、日本で七十七名の幕臣たちがはじめてアメリカ
を訪問したのは万延元年(1860)のことでした。外交批准書交換を米国
のワシントンで行うことになり、アメリカ
軍艦ボーハタン号で使節団がアメリカ
帆船で訪れています。このとき航海の訓練もあり、咸臨丸も同行しましたが有名な話ですから皆さまご承知とおもいます。
さて、アメリカの人々が好意と好奇心で幕臣たちを歓迎し、ニューヨーク市がこのために2万ドルという莫大な支出を議決した記録があります。
日本のサムライは威厳があり、立派な人々だと非常に評判が良かった。特に身分の高そうなサムライ
は実に立派に見えたらしい。武士道というものになれた人たちは非常に落ち着いて見えました。とうぜん彼らは死を覚悟していました。大切な役目ですから武士としては当然の覚悟でした。
さて韓国人などが大事な役目を外国で果すとしたら、責任は重く重圧がかかります。こういった不安に耐えるには「外国はえびす(野蛮人)だ。礼と言うものがない」などと相手を非難する考え方だと自分が楽なんじゃないか。朝鮮の代表団であれば外国はえびす(野蛮人)だ。礼と言うものがない!」と考え不安感と自信のなさを抑えたんでしょう。びくびくした態度の韓国人より死を向かい入れるサムライ
達は、尊敬を集め、反対にサムライ達もすぐに相手側の暖かい歓迎を見抜いて感動しております。
そうはいっても「外国はえびす(野蛮人)だ。礼と言うものがない!」という儒学の思想が、幕府を少しは毒していました。とくに「朱子学」が酷かった。その害は、日本ではまだ「皮膚の炎症」くらいでしたが、「李氏朝鮮」は、「骨髄」まで毒に侵されていました。話を戻します。
朱子学というものは、「自分の文化 VS 他の文化」という点では、劇毒のごとき思想で、破滅的と言えるほど自己中心的です。外国は蔑視すべきものとし、また異文化など一切認めない。さらにいえば民族を「自己崇拝」という甘い美酒に浸って陶酔し続けるための思想でした。具体的には繰り返しになりますが、自分の文化以外の世界は、一切認めず、思考まで停止しきっていました。人間は合理性や正確な認識力を捨てないと、自己陶酔に浸りつづけることは困難だからです。
韓国は、同じ東アジアにありながら「儒教的中央集権国家」でした。江戸期の日本と違い、官僚によって国家が運営されておりました。これは清朝の中国でもおなじでした。官僚たちは「科挙の試験」という、「人類史上、最も難しい登用試験」によって採用されます(それ難解でもない)。採用されれば、信じがたい「名誉と地位と富」を得ます。日本風に言うと「試験による大名」でした。
「
それが文明というものだ」
とこの二つの国の官僚たちは思っておりました。今風にいうと、国語試験だけですから数学・物理学などはっきりとした得点がありません。科挙試験の不合格者はなかなか不合格を納得できません。フィギュアスケートと同じ評価点ですから「俺のほうが良かった」との憤懣が溢れます。いつも不満を持っていました。また文章と詩歌を記憶するだけで、生活に役立つ知識は皆無です。時代が下るにつれ、ついには役立つ品々をつくる人々を差別し排除しました。
まだ不幸が続きます。賄賂などの関係で合格者数が増えました。すると合格してもポストの数以上の合格者がいるため、ポストを得ようと最初から激烈な権力闘争が起きました。。オリンピックで100メートル競走は何秒か?物理的で争いは起きませんが、体操など「評価点」ですと、スッキリ納得できない場合がある。キム・ヨナ騒動など現在もやっていますね。
江戸期も、それ以前にも、日本にはこのようなおかしな文明はありません。日本人たちは七、八世紀以来、儒教の本は読んでいました。が、「社会そのものが儒教」という制度なんてことはない。これは日本にとってとても幸福なことでした。
科挙の試験について、両国の官僚は、これを儒教社会を支える大脳だと思っていました。ところが現実の中国・朝鮮の科挙試験はまるで神学的であり、繰り返しになりますが現実とはかけ離れた全くの空想と独断でした。
受験生は朱子学という「神学」から一歩も出てはいけない。教義(独断)と言い替えてもいいのですが、これらを丸暗記します。独断的な教義にそったあらゆる古典を丸暗記します。その上で、うまい作文を書きます。ところが、この作文にまで型があり(八股文・はっこぶん)、型のとおりに書かないといけない。「独創的」なんてとんでもない話でした。
こんなことできる人間はよほど頭がいいんでしょうが、新しいものは何も生まれない。生むことができない。文化としては「クローン」が出現し続けるだけとなります。後世への文化遺産を作り出せる頭脳なんて期待できない。特に朝鮮は、何の進歩もなく社会としては無為な時間を過ごしました。国力は次第に失われ、中国ではアヘンが蔓延し西欧列強にひざを崩していきます。朝鮮はシロアリに食いつくされたようにボロ
ボロ
になって国家としては崩壊しておりました。
李氏朝鮮は、精密な儒教国家でした。現実には眼をつぶりますから、江戸期の日本を「野蛮国」と信じ込んでいました。もっとも儒教では(特に朱子学では)他国はみなケモノのような野蛮国にしちゃうんですが。相手を下に見ないと、自己陶酔を続けることはできません。
「申維翰(しん・いかん)」という朝鮮の官僚が将軍・吉宗のころ、通信使のメンバーとして来日、日記を残していますが、「官は(身分の)大小(上下)にかかわらずみな世襲である。優れた奇材・俊物が世に出ることができない。」などと科挙の試験制度がないから優秀な人材が世に出られない。「これではこの国はダメだ」、などと記しています。
この人は「もうチョッと深く見るべきだった」と司馬遼太郎氏が書いています。朱子学に毒されて無理だったのでしょうが、日本は封建制度ではありましたが、学問、芸術、医術、武術に秀でた者は、たとえ百姓の子であっても、「幕府であっても諸藩であっても」、そんなことは無関係に,相当な身分に登用されるという特別サービスつきのシステムでした。
本当は不安だった申維翰たちは、ただ威張るだけで、不安を紛らわせていたんですが、彼らを優雅に接待した対馬藩の雨森芳州(あまのもり・ほうしゅう)という儒者もそういう出自の人でした。「この人は優れている」と朝鮮通信使たちは褒めておりますが、こういう特別サービス式採用法で世に出た人は、おそらく朝鮮の科挙試験合格者より多かったはずです。ただ「貴族になる」というオマケまではありません。また、支配階級・被支配階級を問わず、「養子
制度」があり、比較的低い家から俊才を選んで当主にするということが、武家でも町人の家でも普通に行われていました。当時としてはとても通風がいい社会です。
大阪を訪れた申維翰は、あまりの繁栄に驚き、正直に記録しています。また人々の衣服の素晴らしさに感心しています。しかしながら、申維翰らが、理解できなかったのが「繁栄の核心」は日本が商品経済(貨幣経済)の沸騰の中にあったことでした。物事の核心がこのひとたちは見えない、あるいは理解不能でした。
農村での商品を造る富農たち、極めて高品質の商品を造り出す職人たち、問屋制があり、日本の隅々まで結ぶ海運業者など、同時期の仏蘭西をも超えた発展でした。商品経済つまり貨幣経済は合理性の上に成立します。モノ
を数量で見る。質で見る。そうした社会の中で暮らす事で「社会と自分との関係」を理解します。
ここまでくると合理主義でして、個の自由となります。ヨーロッパ
と比べれば、まだまだ幼かったものの、この頃、近代の象徴、「合理主義と個の自由」が次第に世の中に蓄積されていった事が江戸の思想書や文芸からわかります。つまり歌舞伎、浄瑠璃、貸本、外食、俳句、趣味の数学(内容は西洋に匹敵)、その他数え切れぬ文化が沸騰していました。
申維翰の朝鮮は、一種の理想社会でした。社会には官と農民だけ、問屋制度など前期資本主義はゼロ
でした。生産がひどく貧しく、商品経済などという「騒々しいもの」がないため、それはそれは静かな社会でした。後に「隠者の国」などと呼ばれましたが、日本での縄文時代・弥生
時代と違いはありませんでした。
「何もない。」そして受け継いだ数少ない文化のすべてを消してゆきました。「金銭があるから商人がずるいことをする」と通貨を廃止しました。それでも習慣としての儒教は隅々に行き渡り、儒教の中で生きる者たちの間では、朝鮮は日本より格段上の文明国と信じていました。しかし人々の生活を豊かにする工夫や努力はまったくなく、500年の間に社会は停滞し、社会基盤は皆無となり、ひどく不衛生な貧困な国となります。
高度な漢字知識の詩文を作る能力を持った官僚と、それを目指す人のほかは、文字を用いる必要がなく、大多数の朝鮮人は文盲でした。現在のハングル(女・子どものための文字)を読み書きできる女性は、およそ千人に一人だったと、1894年ごろから4度にわたって朝鮮を訪れ『朝鮮紀行』を著した英国
人女性、イザ
ベラ・バード氏が『朝鮮紀行』に書いています。
繰り返しになりますが、女史には「社会は停滞、教育も文化も朝鮮にはとにかく何もない」と幾度も強調した詳細なレポートがあります。
官僚は両版(やんばん)とよばれる貴族として、なけなしの食料を貧しい農民から強奪していました。脱線しますが、現代の北朝鮮と同じではないでしょうか。あるいは何かにつけて「難癖」をつけて「金銭を要求」する、あるいは「借金を申し込み」、いったん借りたら「返すことがない」これは現在の韓国と思えるのですが。金銭が目的ですから理由は何でもいいのです。
閑話休題(それはさておき・・・・・・)
日本においては高度な表現は別としても、経済の必要から「読み書き・ソロバン」がどうしても必要で、広く行き渡り、国民のおよそ七%を占める武士階級は中学生以上の教養を持ち、実際の日本人の識字率はおよそ70%と推定されています。
申維翰は、『海遊録』という見事な見聞録を書きながら、日本社会を「礼があるかないか?」だけしか見ようとしませんでした。日本社会を動かしていた「商品経済の意味」を見抜くことはできなかった。大坂では大量の書籍が販売されていたのに、これを「誰が読むのか」を推理しようとしませんでした。易しい小説や物語に混じって、四書五経をはじめ中国の難解な漢籍も同時に売られ、こういう趣味を持つ普通の町人が買って読んでおりました。
このようにして朝鮮は500年間「自己陶酔」している間に、世界の乞食となっていきます。「世界史の不思議」とされます。官僚は高い地位を求め、日々、権謀術策を繰り返し、【嘘をつく】ことが「高度技術」として【尊敬】を集め、優れた【権謀術数】と【裏切り】と【虚偽】と【神経戦】といったものだけが遺産として残りました。「やがてそれだけが朝鮮の財産」となりました。
参考図書:『明治という国家』司馬遼太郎 日本放送協会:『中国
奥地紀行 第二巻』イザ
ベラ・バード
著 金坂清則訳 297P~317P東洋文庫706 平凡社