(122)テレビ技術を創った男たち
テレビ技術で世界で最初に成功したのは戦前の日本である。日本のテレビへの貢献は非常に大きい。書きとめておきたくご紹介させていただきます。恐縮ですが、順次登場する三人の名前をご記憶ください。
大東亜戦争は多くの人々の人生をもてあそんだ。VHS(ビクター・ホーム・システム)で映像メディアの時代を切り拓き、後に“ミスターVHS”と慕われ、日本ビクター副社長だった①高野鎮雄(たかの・しずお)もその一人。敗色が濃くなった昭和十八年(1943)九月、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)を卒業し、日本光学工業(現・ニコン)への入社が内定したところに召集令状が来て応召した。
終戦で四十五年秋、戦場から戻ると、横浜市の戸塚工場はビクターに買い取られていた。困惑した高野に守衛がビクターには「浜松高工だったら加藤さんがいるよ」、と聞き、下宿先を聞いて訪れ就職の相談をした。「ビクターに来るか?」といわれた。
順序が逆になるが、世界で始めて電子式テレビを発明した日本人がいた。「いい忘れたが、浜松高工で教鞭をとっていた②高柳健次郎(たかやなぎ・けんじろう)先生たちが、近くビクターに入社されるという噂だ。そうなると研究開発の指揮をとることになる。」と加藤が高野鎮雄につけ加えた。「えっ、テレビを発明した、あの“世界のタカヤナギ”がビクターに来るのか、俺もビクターに入る」とその場で就職を決心した。高野は翌1946年4月1日付でビクターに入社した。
三ヵ月後、二十数名の【海軍電波兵器技術士官】を引き連れ、噂の高柳健次郎(1899~1990)がやってきた。この人は大正15年(1925)、世界で初めてブラウン管の上にカタカナの【イ】を映し出すことに成功(正確には半電子式)した。また公開実験を行い、世田谷区、砧のNHK技術研究所の電波塔から東京市内に電波を飛ばし、テレビ受像実験に成功した。特許も申請して、日本のテレビに関する基礎技術は完成し、この時期は世界一の技術力を持っていたが、案外知られていない。
実は昭和15年に【幻の東京オリンピック】が開催予定で、高柳健次郎らはNHKに出向し、テレビ放映に備えたが、ご承知のとおり戦争などのためこのときのオリンピックは流れ、せめてもと実験だけが行われたのだ。その後は軍の技術士官としてレーダーの研究を命じられた。
戦後になって「さあ、テレビだ!」と張り切る高柳健次郎らにGHQが「待った」をかけた。はっきりはしないが日本の高度テレビ技術を恐れたアメリカ民間のテレビ技術者たちが背景にいたと推定される。
公職追放だから、「それなら民間で」、と高柳たちはビクターに移動した。
混乱を避けるためあえて登場させなかったが、③-①加藤与五郎(1872~1967) と③-②武井武(たけいたけし:1899~1992)の二人を欠かすわけには行かない。この二人は昭和五年に、共同で、亜鉛と鉄の酸化物質が電磁波に対し特殊な働きをする事実を発見、これが【フェライト】で、テープレコーダーはじめ、カセットテープ、携帯電話、ハイブリッドカーや、ステルス戦闘機など、多種多様に使われ、現在も発展中だ。お二方とも文化功労者。この【磁性物質実用化】のために作られたのが㈱TDKだ。この磁性物質がなければ、VHSも存在できなかったし、VHSがなければフェライトもそれほど重要とは認められなかっただろう。
高柳健次郎はすでに57歳になっていたが、日本ビクターの中央研究所を経て伝説的な技術指導者となった。NHKがテレビ本放送を始めたのは1953年、アメリカでは翌1954年にカラーテレビ本放送を開始した。その二年後にアメリカ・アンペックス社が世界初の【放送局用ビデオ】を公開した。これを見た高柳は、「大きすぎる上に操作が複雑」と、自分の夢が終わっていない事を悟った。若い技術者たちを集めては、自分らの夢を語らった。(文化勲章受賞者)
「自分が開発したテレビは、戦争もあって実用化ではアメリカに先を越されてしまった。でもテレビは何時の日か、個人の映像メディアとなる。将来は個人が自分用の映像を作れるようになるだろう。それを自分の目で見届けたい」と常に語っていた。この願いが高野鎮雄らに受け継がれたと思われる。
1975年のある日、高橋鎮雄は五十人近い役職者をあつめ、自らの決意を披露した。
「今まで隠していたが、ビデオ事業部はVHS(ビクター・ホーム・システム)と名づけた家庭用ビデオの開発に成功した。うまくいけば今年中に発売できる。失敗したらクビになるが、ついてきてくれるか?」と問いかけた。
ソニーはすでに「ベータマックス」の発売に踏み切っていた。フィリップス社など世界で超一流といわれた会社が家庭用ビデオに挑戦したが、ことごとく失敗した。ビデオの世界では、過去の常識は通用しない。するとベータマックスも必ず成功するとは限らない。逆にいえば経験がないビクターも、ハンディがない。どうせ命を懸けるなら、VHSを【世界規格】にしてみようではないか?」
とつとつとした話し振りは、人々を奮い立たせた。高野鎮雄と仲間たちの夢をのせたビクターのプロジェクトが発足し、世界市場を舞台にした家電メーカーと消費者を巻き込んだビデオ戦争の火ぶたが切られた。VHS(ビクター)とベータ(ソニー)の死闘は十年もの長きにわたった。
ソニーのベータマックスは録画時間が一時間と短かった。国際市場ではこれが欠点となり、あわてて二時間録画が可能な機種も発売したが、これは最初の規格を破ることになった。
さまざまな競争のドラマが展開され、「規格は会社がつぶれても守り抜くべきだ」と頑強に戦った高野に軍杯があがり、VHSは、名実ともに【世界の標準規格】となった。テレビを開発した高柳健次郎は九〇年に愛弟子たちが心血を注いで開発したVHSと、ビデオ戦争の行方を見届け、九十一歳の天寿を全うした。
高野は副社長を退き、常任監査役についたが、その晩開かれた感謝パーティで、「あの頃は夢中でした。夢中というのはすばらしいことです。なぜ夢中になれたかというと、素晴らしい人たちが・・・」と絶句した。
不幸は突然やってきた。人間ドックに入った高野鎮雄は末期がんに全身を冒されていた。消費者のための規格統一に一生を使い切ったのだろう。
やがてビデオテープの時代は過ぎ去り、【デジタル時代】に突入した。多くの技術者は「デジタルは無限の可能性を秘めている」と断言する。だからこそ、将来の予測がつかず、規格をキチンとしないと共倒れになる危険性がある。新しいデジタル方式の規格については、ビクターもソニーもいち早く同意した。
「デジタル時代はソニーだ、ビクターだといっていると、時代に取り残されてしまう。自分の弱い部分はライバル企業とも提携していかないと・・・」
「それはソニーも同じですよ。うちはVHSのデジタル化は遅れているが、ネットワーク技術には自信をもっています」この会話がきっかけとなり、両社の技術者交流が始まった。
ビデオ戦争に登場する松下の、松下幸之助、ソニーの盛田昭夫、井深大(いぶか・まさる)も黄泉の国へ行った。
高野さんが亡くなってからもう五年になる。そういえば、一度もお墓参りにいっていない。近いうちに・・・」と関係者が高野鎮雄の生まれ故郷、愛知県刈谷市の【昌福寺】をおとずれた。寺の山門横には「加藤与五郎先生・生誕の地」の看板が掲げられていた。加藤と高野の墓は、斜め背中合わせにある。墓石に水をかけながら皆は「高野さん、VHSの販売台数は延べ六億台を突破し、なお毎年コンスタントに五千万台ほど出荷されています。VHSは単なる家電ではありません。デッキ、ムービー、テープ、ソフト、関連部品、流通を含めた一大産業に発展しました」と心の中で語りかけた。
「デジタル時代の到来で、地上波テレビ放送のデジタル化も開始されました。VHSの基礎技術は十分デジタル時代に対応できます。期待されているDVD(デジタル・ビデオ・ディスク)が伸び悩んでいるのは、高野さんのような信念に基づいた旗振り役がいないからです」と語りかけるものがいた。
人間の縁(えにし)とはとは不思議だ。テレビを発明した高柳博士は、戦後ビクターに入社してビデオの夢を説いた。そして高野鎮雄が、その夢をかなえた。磁気テープがなければ、誰もビデオの発明なんて思いつかなかっただろう。高野は磁性材料を発明した加藤博士と、背中合わせで眠っている。①テレビ、②フェライト、③ビデオ、これら日本が世界に誇る“三人の父”が見えない糸で結ばれているのだと多くの人々が感じた。
この項を書くにあたり、親しい外国のテレビカメラマンに電話で尋ねたところ、「詳細は分かりませんが、プロ用品はテレビ、一眼レフ、すべて日本製ですね。一眼レフには、ライカもハッセルブラド(スエーデン製)もありますが、高価すぎて商売になりません。それと、アマチュア用のビデオカメラなんかに少し韓国製なんかがありますけど」、と教えてくれた。今も日本は映像メディアのハード方面は、世界の90%以上を席巻している。
参考図書:『映像メディアの世紀』佐藤正明 日経BP社 1999
