(114)白魚が泣く小泉八雲 | 江戸老人のブログ

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(149)白魚が泣く小泉八雲


小泉八雲 、本名ラフカデディオ ・ハーン(1850~1904)は、アイルランド 人の父とギリシャ人を母としギリシャに生まれた。

 16歳のとき事故で左目を失明、右目も強度の近視で、いつも虫眼鏡を持ち歩いた。イギリス からアメリカ のニューオリンズに渡り、無頼の生活を送っていた。
 
新聞記者としてセンセーショナルな記事を書き頭角を現した。その一方、相棒と共に白人と有色人の間に生まれた「クレオール 」と呼ぶ人々が好む「ジャンバラヤ」専門店を開いた。米を使うこの料理はスペイン 料理パエリャから来たらしい。米や豆が多く、後の八雲が日本食に抵抗がなかった理由と思われる。
 店は上手くいったが、相棒が店の金を持ち逃げし、あっという間に閉店した。1844年、たまたまニューオリンズで開かれた「万国産業博覧会」で、日本館を取材、強い興味を持ち、明治23年(1890)、40歳で来日した。
 来日した23年12月に松江在の小泉節子と結婚、54歳で没するまで14年間を日本で過した。日本の伝統文化を深く愛し、近代化する日本に幻滅して生涯を終えた。
 
 日本での生活ぶりを、萩原朔太郎 (はぎわら・さくたろう:詩人:1886~1942)が書いている。孫引きすると、
 八雲の生活様式は、全く純日本風であった。彼はいつも和服―ー特に浴衣(ゆかた)を好んだー―を着、畳の上に正座し、日本のキセルでキザミ煙草をつめて吸っていた。

 食事も米の飯に味噌汁、野菜の漬物や煮魚(にざかな)を食い、夜は二三合の日本酒を晩酌(ばんしゃく:家庭で夜の食事の時に酒を飲むこと・またその酒)にたしなんだ。(しかし朝はウイスキイを用い、ビフテキも好んで食った。)

 住居は度々(たびたび)変わったが、純日本風の家を好んで、少しでも洋風を加味したものを嫌った。日本人の知人を訪問しても、洋風の応接間などに通されると、帰ってからも甚だ(はなはだ)不機嫌であった。
 
 当時の日本は、文明開化の欧米心酔(おうべいしんすい)時代であったので、至(いた)るところ、彼はそうした不機嫌の目に逢わされた。日本人は立派な文明をもっていながら好んで野蛮人の真似(まね)をしたがると、彼は常に不満を述べていた。『野蛮人』という言葉は、彼の誤藻(ごそう:ボキャブラリー)において、『西洋人』と同字義であった。(「小泉八雲 の家庭生活」)引用終了。

 

 八雲は、士族の娘を紹介してほしいとツネ「松江の女旅館主(84)」に頼み、ツネは知り合いの小泉節子を紹介した。この頃は日本に来て仮そめの妻(テンポラリー・ワイフ)と同棲する外国人が大勢いて、J・L・ロングが書いた『蝶々婦人』もその手であったという。

 八雲はニューオリンズで黒人女性と結婚して別れ、西インド 諸島では「有色の娘」と親しくなり『仏領西インドの二年間』という奇書を刊行、オリエンタル好みの読者から好評を得ていた。

 英語教師として松江に来たときは、こういった遍歴の延長で、日本の娘を愛人として雇い入れるのが望みだった。しかしひとたび同棲すると節子に牛耳(ぎゅうじ)られ、手も足も出なくなり、正式結婚した。
 
 八雲と節子とに仕えた高木八百刀自(たかぎ・やおとじ)(67歳)によると、「朝食は牛乳二合と生卵五個、玉子をやたら好み、玉子を使った日本料理を好んだ。

 夕食は必ずビフテキで、松江の西洋料理店「魚才」から取りよせ、そのあと朝日ビールを飲んだ。つまみは松江の「小金牡丹(こがねぼたん)」という柔らかい菓子五、六個を食べた。」という。
 
「魚は煮つけと焼き魚いずれも喜んで食べられましたが、刺身を上がったことはあまりなかったと思います」というから、刺身は苦手だったらしい。

 こういう話もある「白魚の吸い物を召し上がったとき、フト先生は椀の蓋(ふた)をあけたまま静かに耳を傾けておられましたが、奥様に向かって、『この魚泣く』と申されました。奥様は、それは魚が泣くのではありません。入れ物が漆器で、あまり熱い汁を入れたためで、どうかすると、こんな音がするものです、と説明され、先生もようやく納得され、あとで皆々大笑いになったことでした」

 視力に障害を抱えた八雲は、音に敏感だった。これはツネも「通りに往来する金魚売り、花売り、鮮魚売りなどの呼び声なども、いつも先生は耳をすまして聞いておられました」と語っている。八雲は日本の下駄の音が、左右わずかに違って響くことまで聞きわけて書いている。

 

八雲が日本国籍を得て、小泉八雲 と改名したのは明治29年(46歳)だった。この頃八雲の日本語は、小学校五、六年生ほどまで話せるようになっていた。『怪談』シリーズは節子の話を聞きながら書いた。すなわち日本語の“音を聞きながら”耳から書いた。節子は次のようなことを回想している。
 『耳なし芳一』の話は、八雲が大変気に入った話でございます。なかなか苦心いたしまして、元は短いものであったのをあんなにいたしました。「門を開け」と武士が叫ぶところでも「門を開け」では強みがないというので、「開門」といたしました。これを書いているとき日が暮れてもランプをつけません。私はふすまをあけないで次の間から、小さい声で、芳一、芳一と呼んでみました。すると「はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか」と内からいって、それで黙っているのでございます。いつもこんな調子で、云々と続く。

 


それから書斎の竹薮で、夜、笹の葉ずれがサラサラといたしますと「あれ、平家が亡びて行きます」とか、風の音を聞いて「壇の浦の波の音です」と真面目(まじめ)に耳をすましていました。(「思い出の記」)

 幸運だったのは、在日中にアメリカで出版した“Out of The East”(東の国より)が東大総長・戸山正一(とやま・まさかず)の目にとまり、東大の英文学講師として採用されたことだった。週に十二時間教えて月給四百円というのは法外な俸給だった。八雲は分かりやすい講義をして学生に人気があったが、同僚の外国人教師たちには嫌われた。キリスト教徒でないことが目の敵にされ、学歴を持たない、新聞記者の成り上がりと批判された。

 明治33年に強力な庇護者だった外山正一が死ぬと、八雲の地位が危うくなった。このとき月給四百五十円で、日本人教師を三人雇える額であった。八雲は金銭にはうるさかった。異国で生活するためには「金が第一」ということがあるだろう。八雲の長男、小泉一雄は、八雲が「金、金、金」と叫んでいたことを少年の目で浅ましいと思う気持ちで聞いていたと回想している。

 

明治36年八雲は東大を去った。後任は「夏目漱石 」であった。

 八雲は椀の中の白魚からも物語を想像した。日本料理に、美しい形と配色、繊細な味覚を指摘する人は多いが、日本料理から「音」を感じ取り、それを文字に置き換えドラマにした人は八雲だけ、嵐山光三郎氏は、「そう気づいて『怪談』を読み返すと、どの一遍からも、さざ波のように、あるいは風のように、音が聞こえてくるのがわかる」と書かれている。

 八雲は芭蕉の俳句を英訳した最初の人である。「古池やかわず飛び込む水の音」は、八雲訳では、「Old pond,frogs jumping in, sound of water.」だが、この句はのちにサイデンステッカーにより「The quiet pond/A frog leaps in,/The sound of water.」と訳され、サイデンステッカー訳がアメリカ 教科書に掲載されている。嵐山氏は「私は八雲の直訳のほうがいいと思う」と書かれているが、ちょっとだけ英語をやった筆者にも、八雲のほうが音として簡素な美を感じる。こういうのは好みだけど、さてどんなものだろう。



引用本:『文人暴食』嵐山光三郎著 新潮文庫 2006年