(107)次郎長と鉄舟 | 江戸老人のブログ

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(107)次郎長と鉄舟


三舟(さんしゅう)と人々が呼んだのは、幕末、江戸無血開城に導いた人々のうち、雅号に「舟」の文字がつく人たちのことで、①勝海舟、②山岡鉄舟、③高橋泥舟(でいしゅう)の三人である。そのうち山岡鉄舟(1836~1888)をご紹介したい。


 江戸の本所で、御蔵(おくら)奉行、小野朝右衛門高福(おのちょうえもん・たかよし)の四男として生まれた。名は高歩(たかゆき)、通称・鉄太郎
 幼少期を江戸で過ごすが、弘化元年(1844)父が飛騨高山へ郡代として赴任、このため嘉永5年(1852)の父の死まで飛騨高山で過ごす。剣道・禅宗・書をよく学んだ。幕末の江戸城総攻撃にあたり、ひとりで動き勝海舟を江戸薩摩藩邸にて西郷隆盛と談じさせ、江戸無血開城へと導いたことはあまりに有名、またしばらくして、西郷に勧められ、若かった明治天皇の教育係として10年と期限を切って仕えた。明治天皇にキムラヤのアンパンをお勧めしたり、面白い話が多いが、今回は清水次郎長(しみず・じろちょう)との関係を書きたい。

 
 清水次郎長は講談や時代劇で有名だが、実在の人物である。時代劇の主人公として描かれることが多く、江戸時代の人と思いがちだが、実際には明治26年まで生きた。鉄舟の葬儀にも参列している。

 清水次郎長が生まれたのは、文政3年(1820)元旦。駿河清水の船頭の三男として生まれ、母方の叔父、山本次郎八(じろはち)の養子となる。次郎長と略して呼ぶが、本名は山本長五郎という。博徒となり東海道を縄張りとし、甲斐の黒駒勝蔵(くろこま・かつぞう)、伊勢桑名の穴太徳(安濃徳:あのうとく)らと抗争を繰り広げる。慶応2年の荒神山の決闘で、全国に名がとどろくが、明治維新を迎え、状況が一変した。

 
 慶応4年(1868)九月に年号を改め、明治元年となるが、一月の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜追討令が出され、三月に入り有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)大総督率いる東征軍が駿府に駐屯、町奉行は廃止となり、旧浜松藩の家老が当座の責任者となって町の治安に当たっていたのだが、この人の要請により、次郎長も沿道警備にあたった。
 この任につくことで過去は一切帳消しとなった。また帯刀も許された。毒を持って毒を制したのだろうが、それほどの社会の混乱が読み取れる。徳川380万石は、70万石に減らされ、徳川家達(とくがわ・いえさと:当時は田安亀之助)が徳川家を相続することになり、同年八月、わずか六歳の藩主が駿府にやってくるが、駿府幹事役に山岡鉄舟がいた。恭順の意を示した徳川慶喜も、同じ駿府に隠棲(いんせい)する。

 
 年号が明治と改まる前後、新政府との対決を諦めない榎本武揚(えのもと・たけあき)は数隻の軍艦を率いて奥州に向かったが、犬吠崎で嵐にあい、中でも老朽化していた咸臨丸が静岡まで流され、清水港で修理を余儀なくされた。
 ところが、このとき官軍側海軍の襲撃があり、大半は上陸していたが、船内にいたものは殺されて清水港に投げ込まれた。駿府藩は官軍の目を気にしてこの死体を放置したが、漁民も廻船業者も困惑した。
 
 「死んだらみな仏、官軍も賊軍もない」と次郎長が子分たちに命じ埋葬させた。これを駿府藩が取り調べることになり、このとき次郎長は鉄舟と出会うことになる。次郎長の行為に感銘を受けた鉄舟は、次郎長の労をねぎらった。墓碑銘(ぼひめい)を書くなどイロイロあり、これを機に次郎長は鉄舟の家に出入りするようになる。交際は鉄舟が東京に戻ってからも続いた。次郎長のほうが16歳も年上なのに、鉄舟が先に逝く。

 
 維新後の次郎長は、囚人を使って富士山麓の開墾など、新政府の政策に協力するが、そんなおり、天田五郎という青年を預かる。いったんは次郎長の養子となり、後には禅僧となり、歌人としても優れ、正岡子規に影響を与えたりしたが、禅僧となった天田愚庵によって『東海遊侠伝』が書かれた。これこそが時代劇や講談で次郎長の人間像を作った。これをもとに講釈師や浪曲師がヒーローとしての次郎長を全国に広めていくことになった。

 この天田青年を次郎長に託したのが、山岡鉄舟だった。何でも戊辰戦争で行方不明となった両親と妹を探し、全国を放浪していた天田青年を知り、前途有為と感じたらしく、次郎長の人物を見込んでこの青年を託したのだが、これが講談や時代劇の主人公を創り出す結果となった。
 旅行けば、駿河港に茶の香り♪ 次郎長一家に、大政・小政・森の石松がいたかどうかなどは不明である。当然ながら「江戸っ子だってねえ? 鮨くいねえ・・・」も創作だろう。
 山岡鉄舟は実にいろいろな人と出会い関わりを持ったが、人物を見抜く確かな眼をもっていたようだ。



引用本:『山岡鉄舟』教育評論社刊 2007年刊