(94)江戸文化聞きかじり・庶民の生活 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(94)江戸文化聞きかじり・庶民の生活

 
  江戸庶民の味噌汁の多くは、実はインスタントが多かった。毎朝棒手振から買うのですが、味噌に、ダシ数種とネギなどが練りこんであり、そのまま熱湯で溶かせばいい。

 包丁、まな板がなかったため、野菜は手でちぎり、豆腐も手でちぎっていました。必要なときは豆腐屋さんにさいの目に切って貰います。江戸の裏長屋は煮炊きが少なかったんです。なぜといえばカマドがない。あるんですが形だけ。ひとつの七輪を長屋中で使いまわしておりました。
 

 「江戸時代が好きでして・・・」と筆者が自分のことを話しますと鮨の正しい食べ方などを聞かれます。もとは下賎な食べ物でして、勝手でいいんです。一番最初は高級だったんですが、贅沢禁止令のあおりで行政指導があり、屋台だけ残りました。ま、店と屋台の両方あったと思っていただければ。


 ところで江戸でのデートの誘いやプロポーズ、女性が主導権を握っていました。男性はひたすら待つ。女性の数が足りませんで、女性が強い。

 もちろん江戸庶民の話でして、ひとかどの武士、あるいは豪商にはいろいろと条件がありました。庶民ですと夜這いというのがあたり前、これは満月の夜です。毎月、15日は晴れれば満月となるよう暦そのものが工夫されていました。満月の夜は国中で夜這いです。年頃になる娘に夜這いがまったく来ないと親は心配します。また旦那衆の寄り合いなども15日が多かった。提灯がいならいことが理由です。


 地方によっては、遠路を帰る若者のため、台所は施錠せず握り飯を食べるよう、オヒツを見えるところにおいておく。空腹を満たすお手伝いで、若い方々には色々とお世話になるため、まあ、一種の相互扶助でした。

 当時の日本、避妊法を始め性教育が女子に徹底されたといいます。もっとも江戸の娘は、素人と玄人との見分けがつかなかったらしい。垢抜けるという言葉がありますが、文字通りの意味と、赤い色を着ない意味との説があります。
 

 当時は、武士階級は別として不倫という概念がなかったようです。不倫の概念は、明治以降、キリスト教が入ってきてからです。不倫関係の男性を間夫(まぶ)とよんだのは色街、一般は間男(まおとこ)です。
 

 もめますと金銭でカタをつけますが、庶民は五両から七両二分が平均とか。女性がもらう「三下り半」は、いってみれば再婚同意証、次の男へと貰っておかないとまずい。江戸時代は性に関し真におおらかです。前に登場したケンペルさん、宿々で「風呂は?食事は?女は?」と聞かれ仰天したとの日記があるそうです。

 




 信仰では稲荷神社が大流行し現世利益のため栄えます。読んで字のごとく稲の神様、このお使いが狐、「ねずみの油揚げ」が大好きとされ、「豆腐の油揚げ」で代用しました。一所懸命にしたのに、願いがかなわぬと、稲荷様の方がしかられます。稲荷様との契約概念があったんですね。 

 

また武家屋敷では、金毘羅様を屋敷内に祭ります。ご縁日が月に二、三度あり、近くの住民などを呼び入れまして、オコワとお酒をふるまいます。ご近所の方も、ちゃんと賽銭を差し上げる
 

 日頃のお付き合いが大事でして、火事や地震などのとき大いに助かったといいます。その辺りとても通風がよかった。立派な武家屋敷といっても気取ってばかりではありませんで、お部屋様のほうでも茶会を開き、地域の娘さんに行儀作法を教えたりする。親しみを持って貰うよう気を配っていました。お茶会が縁で、娘さんが屋敷奉公へ、などの話もあり、双方に便利でした。

 
 江戸時代のお寺というものは、宗教というより行政を手伝って今風に言いますと行政補助機関。24時間営業でして、特別なとき、たとえば出産など長屋では間に合わぬときは本堂を借ります。

 住民の過去帳(亡くなった方の名簿)などが完備され、現在で言う住民台帳でしょうか。総檀家制度でして、後期には人別長も管理しており現在の戸籍とか住民票を取り扱っておりました。で、なんとなく大家さんのお寺に通うようになっちゃう。ホントに大家といえば親も同然となります。 
 

 神田明神は三ノ宮に平将門(まさかど)さんの首塚をまつっていますが、氏子はこれが誇り、鬼と将門は関係が深い。節分の豆まきのとき「鬼は外」とはいわず「厄は外」といったとか。東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で広く知れ渡り「東京の守護神」として多くの注目を集めますが、これも江戸から続く話でした。

 


江戸時代は戦争がなく、米は恒常的に余っていました。大飢饉、百姓一揆は珍しく、そのため人々の記憶に鮮明に残ったとか。これはチョト意外な話でしょう

 また、カメラ・オブスクラというフィルムのないカメラも西洋から入っており、司馬江漢などが使っています。

 平賀源内は、秋田藩(久保田藩)家臣に洋画の技術を教えています。江戸中期には遠近法も、陰影画法も理解されていますが、浮世絵などでは「ありていに描きては興なきものなり」つまり「あるがままにリアルに描いても面白くないでしょ?」と取り入れませんで、これが後世フランス印象派画家たちを驚かします。
 
 西洋文明についても、長崎出島を通じ、ほとんどすべての情報が入っておりました。オランダ語、ポルトガル語、ドイツ語など、一応の通訳もおりました。カステラ、ラシャなど、外来語が多く残っております。懐中時計を分解し、洗浄して組み立て直すごとき緻密な行政を、日本中で競争し、世界でも珍しいほど高度で、明治近代化へもすぐ順応する準備力がありました。
 

 ちなみに「」は明治になってからの概念でして、江戸時代は「国」、あるいは「」とよびました。一緒にすると「国家」ですね。現在使っている「国家」は多分そこからかと思いますが、まったく未確認です。それやこれや、筆者はやはり日本は面白く好きです。
 


資料 杉浦日向子対談集などから。 使用の室内写真は江戸深川資料館・許可済