(71)電気ブラン
洋酒はいつ頃から日本で飲まれたか? これは多分16世紀あたり、織田信長さんがご活躍された頃、きわめて少量ですが、ワインなどイロイロな洋酒が入っておりました。赤ワインを【チンタ】といい、漢字では珍陀とか陳陀と書いております。ポルトガル語で「赤」のことかと。
詩人、北原白秋(1885-1942)さんの最初の詩集『邪宗門(じゃしゅうもん)』にも登場いたします。
<われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じゃしゅう)、切支丹(きりしたん)でうす(神のこと)の魔法。黒船の加比丹(かぴたん=キャプテン、船長)を、紅毛(こうもう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、色赤きびいどろ(ガラス)を、匂(にお)い鋭き(とき)あんじゃべいいる(カーネーション)、南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま=細縞の木綿布)を、はた阿刺吉(あらき)珍酡(ちんた)の酒を。>
などとおどろおどろしく描いておりますがちゃんと珍酡、つまりワインが登場します。また後のほうでウイスキーもチャンと出てまいります。アラキとはアラビア語からとされ、アルコールから派生した言葉、蒸留酒のこととか。れっきとした日本語になっており江戸時代は焼酎を「アラキ酒」ともいっています。
浅草と電気ブラン
まず、浅草の地名と、神谷伝兵衛(かみや・でんべい、1856-1921)の名前をご記憶ください。幕末の伊勢の方、若くして横浜へ出ます。ここでフランス人経営フレッレ商会で労務者として働きますが、あるとき病気で倒れます。主人が神谷伝兵衛に葡萄酒、すなわちワインを飲ませたところ快癒(かいゆ)しました。ま、過労か何かで倒れたところ、ワインを飲み熟睡(じゅくすい)したんじゃないか、と推理してますが・・・・・・このとき伝兵衛さんはワインの効能に・・・・・・滋養強壮にいいと悟ったそうであります。
その後イロイロな仕事を手がけ、1880年に浅草に【三河屋酒店】を開きまして、①濁り酒 ②輸入ワインに甘みを加えた飲み物、以上の2種類の一杯売りを始めます。この甘いワインは「健康にいい、滋養強壮にいい」と宣伝したところ、ヒット商品となり爆発的に売れました。慣れぬうちはワインは醸造が浅い甘めが美味しく感じます。高価なワインが美味とは限りませんで、むしろ渋く苦く感じます。現在でいう「養命酒」みたいな印象だったんでしょうか。
神谷バー(かみや・ばー)
神谷伝兵衛さんは商才に恵まれた人で、後に日本で最初のワイン醸造を始めますが、この話は他の項目に書くので省略、ここではその後を。明治45年(1912年)浅草に「神谷バー」を開きました。現在でも同じ場所(1921年新築ビル完成、戦災に会いましたが,外壁を復元、内部は改装、外装は当時のデザイン)で営業、住所は台東区浅草1丁目1番1号、これ以上覚えやすい住所もありません。
浅草寺の入口大提灯(ちょうちん)に向かって右側へ100メートルほど、吾妻橋のたもとで今も続いております。で、このころ創ったのが「電気ブランデー」すなわち「電気ブラン」であります。
ブランデーをベースにベルモット、キュラソー、ワイン、ジン、薬草などを混ぜたもので、配合は今も秘密でして「そのほうが楽しいでしょ?」と広報部の方が。美味しいわけではありませんが、話の種にはお勧めで、それなりの味がいたします。昔からビールと一緒に頼み、電気ブランは強いのでビールをチェイサー(強い酒を飲んだ後に飲む水)にする方が多いとか。
なぜ電気の名が?
明治の終わり頃、電気という言葉はとてもモダンで新鮮なひびきだったとかで、そこから電気の名が。なお、飲むと舌がぴりぴりしたから・・・との説は、合同酒精株式会社(同じ会社というか同属会社というか・・・)担当者のお話では「無理がある・・・」とのことです。
実は明治10年(1877年)から明治15年(1882年)日本でコレラが流行、多くの犠牲者が出ました。神谷伝兵衛さんが試作中のブランデー、未完成でしたが、強アルコールが含まれ、予防、消毒にと爆発的に売れ、大変な財産をつくった強運の人でありました。
なお後に北海道旭川にアルコール工場を開設、無水アルコール(多分医学・化学用)の生産に成功、日本医学などの近代化に貢献しております。
ちなみにコレラの死者は日清・日露戦争での死者数を上回るとか。1894年北里柴三郎博士によりコレラ血清治療が発見されています。IPS細胞とかSTAP細胞とか日本の医学はずっと世界を驚かせておりますが、この頃からです。
気つけ薬の蒸留酒
アルコール度数の高い蒸留酒を英語で「スピリット」といいますが、もともとは「心・精神」の意味でして、気つけ薬としてかがせたことから来ているとか。
ウイスキーも、ラテン語では「命の水」というそうです。(参:サントリーお客様相談室編『スローな時間をご一緒に』から)広く当時の医学に応用されました。
当時の浅草は現在の新宿・渋谷・六本木よりモダンでして、神谷バーに多くの文化人が出入りし、詩人の萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)さんは、<一人にて酒をのみ居(お)れる憐(あわ)れなる となりの男になにを思ふらん>(神谷バァにて)などの詩を残しております。
電気ブランとともに昭和の初めには、川端康成が、浅草の最も華(はな)やかな時代を「浅草紅団」「浅草姉妹」「浅草の九官鳥」など数編の小説にし、このほか石川啄木、高見順、谷崎潤一郎、坂口安吾、壇一雄・・・など、数多くの文学者たちがこの地に心惹(ひ)かれ、浅草に名をとどめています。近頃は若い方々や金髪のかたも増えまして嬉しいかぎりであります。浅草へお出かけの際はぜひお立ち寄りのほど。食事もできます。
以上
茨城県牛久にここのワイナリーがあります。博物館もあり、いい感じの喫茶室も。古くからの文化でご紹介しておきます。食事OK.

