江戸歌舞伎事情
江戸ほど大火が多かった都市も珍しい。記録によると5年ごとに大火事があったという。明暦の大火(明暦3年・1657)は死者10万人以上とされ、犠牲者規模が世界的だ。当時、墨田川には千住大橋しか橋がなく、、避難者の逃げ道をふさぎ犠牲者が増加した。幕府は両国橋、永代橋などを新たにかけ、火除地や、広小路(燃え広がりを防ぐ広場)などを設け、道路の幅も広くした。江戸城の天守閣も延焼したが、再建には初代会津藩主の保科正之(ほしな・まさゆき)が、「そんなときじゃないだろ?」と猛反対した話が伝わる。
広小路には簡易な建物だけは許され出店や、芝居小屋などができ人が集まる。幕府は①中村座、②市村座、③森田座、④山村座の四劇場に、日本橋の堺町、葺屋町(ふきや・ちょう)、木挽町(こびきちょう)だけでの興行を許し、四劇場がここに集まっていた。その後、天保の改革の頃、浅草の猿若町にすべての芝居小屋が移転、「猿若三座」と呼ばれた。
歌舞伎は、出雲のお国(司馬遼太郎氏と湯川秀樹氏との対談では、出雲には朝鮮系美女が多く「美女のお国」との宣伝だったらしい。)が始めたとする風俗産業、男装の麗人として妖しい魅力を振りまき、京都に常設小屋まで出来たが、その後、若衆歌舞伎などもあり、成人男性のみで行う「野郎歌舞伎」にまとまった。明治まで「歌舞妓」との女偏の文字をも使った。
もともとは関西文化で、人形浄瑠璃に影響を受けたが、江戸歌舞伎といえば名優市川団十郎の荒事(あらごと)という赤色や藍色(あいいろ)の派手な隈取り(くまどり=メークアップ)、荒々しい立ち回り、仰々しい台詞回し(せりふまわし)などの様式を完成、豪快で賑やかなものが好きな江戸っ子の美意識にピッタリと合致、熱狂的人気を博した。
代表的な演目は【しばらく】【助六】【矢の根】【鳴神】【勧進帳】などあるが、とりわけ二代目市川団十郎初演の【助六】は、吉原遊廓を舞台にした「助六とその恋人揚巻」のスペクタクルで荒々しさの中に艶やかさもある江戸歌舞伎代表演目となった。ちなみに今コンビニで売っている「助六弁当」は、恋人の「揚巻(あげまき)」からで、稲荷鮨のアゲと海苔巻きのマキからのしゃれだ。芝居小屋は江戸、大阪、京都で十一座あったという。
人形浄瑠璃や歌舞伎から、人間や人生、人情や処世を学び、せりふは記憶して言語表現に磨きをかけた。司馬遼太郎氏の小説『菜の花の沖』では、主人公の嘉兵衛に人形浄瑠璃を上手に使わせている。井上靖氏の『おろしや国粋夢譚』映画では、緒形拳氏が演じる、嵐でロシアに流された「大黒屋光太夫」が、女帝エカテリーナに請われて人形浄瑠璃を歌い、ウンザリした顔で「もういい・・・」と言わせる場面があった。人形浄瑠璃や、歌舞伎演目はこの頃、庶民の教養だった。
茶屋文化のご説明をお許しいただきたい。出会い茶屋(ラブホテル)、相撲茶屋(現在と同じ)、料理茶屋(待合・高級料亭)、水茶屋(美少女喫茶)、引き手茶屋(吉原遊郭)など色々あるが、目的は地方から出てきたばかりの者たちに、恥をかかせぬ「江戸文化案内所」の役割を果たしていた。吉原という大歓楽遊郭でも、引手茶屋に頼めば、すべて段取りして複雑文化を理解させた。水茶屋は、酒を売らないとの意味で、「傘森お仙(かさもり・おせん)」など、美少女で大人気となった。無論、いかがわしい例外もある。
芝居茶屋は、席から飲食などの面倒を見てくれた。休憩時の幕間に用意された飲食を楽しむなど、色々な世話をしてもらえる。ただし相当なもの入りとなる。
当時の芝居見物は、明け七つから暮れ七つ半まで、おおむね現在の午前四時から午後五時まで、通し狂言で長かった。実際の開始は午前六時頃だろうか。暗くなってから大人数が集まることを幕府が警戒したためという。早い芝居を見る客は、午前二時ごろ起きだし、身支度を整えた。あるいは近くの知人の家に泊めてもらうなど、本当に一日がかりの行楽、さしずめ早朝フライトの成田発旅行のようだったろう。
休憩時間を、幕間(まくま)というが、このときに食べる弁当が幕の内弁当、鮨が好まれたがすべてコハダ鮨だ。
座席には①桟敷(さじき)②土間(どま)③立見の三種類があり、庶民は土間を使った。これを鶉枡(うずらます)とも呼んだ。立見席のずっと奥が「大向こう」、ここから舞台へ上手く大声をかけ、雰囲気を盛り上げるのは今も同じだ。
ちなみに浮世絵はまさにブロマイド、最初はモノクロだったが、多色刷りの錦絵となり、華やかな江戸の雰囲気を伝える土産物などに喜ばれた。
役者の年俸も千両を超えるものが出て【千両役者】として有名になったが、奉行所の命で年俸500両までとし、奢侈(しゃし=贅沢)は禁止された。芝居見物は大変な出費、庶民が簡単に楽しめるものでなかった。富裕層は芝居茶屋に高額を支払って桟敷(さじき)を予約し、朝はゆっくり出かけた。
なお、西徳4年(1714)の江島生島事件で、四座のうち山村座は、取り潰しとなり、結果として江戸は三座となった。その頃の山村座は木挽町にあったという。
娯楽が少なかったから、さしずめ、大リーグ、ワールドカップ・サッカー、ハリウッド映画、その他を全部足したごとき隆盛で、その結果、あちこちで長唄、常磐津、清元を習う者が多かった。
ファッションなどの流行も芝居からで、幕府は政治批判などを警戒していた。演じるほうも尻尾を掴まれぬよう奇手を使い、庶民には理解できた。これで鬱憤(うっぷん)を晴らし、いっそう人気が出たという。
役者などの社会的地位は非常に低かったが、明治24年、外務に奔走した井上馨邸で行われた天覧芝居で地位が向上した。すたれていた武家の能狂言もおなじとされる。
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