江戸野菜あれこれ(144)
江戸時代は「見立番付(みたて・ばんづけ)」がよく行われた。なんであれ相撲の番付にたとえランクづけする。大酒飲みの東と西の横綱は? といった具合。野菜の見立て番付もあり、ここから野菜のあれこれを書き出してみます。
谷中(やなか)ショウガは、葉がついているので、葉ショウガともいう。たいていの方は、山手線内側の台東区谷中、谷中墓地で有名な谷中の産と思うが、これが違うそうだ。ホントウは荒川区にあった「谷中本村」が産地という。出荷の手間がかかるくせに、新鮮でないと価値がなく、近距離でないと無駄になったという。むずかしい作物だ。
小松菜は、小松川のあたり、今の江戸川区平井一丁目の近辺、中川の「逆井」の渡しあたり。アブラナ科の植物で、八代将軍吉宗が、「以後は、小松菜と名づけよ」とかいった話があるがどうも怪しい。春に出荷される小松菜を「うぐいす菜」、冬に出すと「ふゆ菜」といったそうだ。こっちは季節感があっていい。
千葉県行徳で造る食塩を運ぶために掘った小名木川は千葉方面からの野菜を運ぶのに便利だった。帰りは下肥をつんで帰った。川がなければ江戸の生活は成立しなかった。中川・隅田川・荒川放水路・江戸川と南北に、東西は小名木川など碁盤の目のようで、江戸物流は川によった。とうぜん洪水が多かった。吉原で有名な日本堤は、対岸の墨田堤とともに、大水を江戸へ入らせぬ目的で造られた。
府中といえば競馬場で有名だが、名物として深大寺蕎麦が知られていた。タデ科の植物は、団子にするか、実を粥にして食べた。「そば切り」とよばれる現在の食べ方は、独身者が多い江戸で重宝された。
深大寺は調布市にあり、山号は浮岳山、天台宗の寺でかなり古い。蕎麦は少量しか採れず、便乗してあちこちから持ってきたらしい。蕎麦の有名店は神田の『籔そば』とされるが、池波正太郎 氏はじめうるさい人は神田の『松屋』が一番という。気取ったところはまったくない。そういえば東北自動車道の上り、【羽生インター】に新しくできた「鬼兵犯科帳」をテーマにした江戸風の施設ができたが、これに「松屋」が協力し、どうも「やまかけ」がいいらしい。テレビで観ただけだが、いけそうだった。混みそうだからしばらくしてから行ってみるつもりです。
深大寺に限らず武蔵野台地では農業用水が乏しく、ソバ・大麦・小麦・あわ・ひえ、など穀類が多く作られた。隅田川などの低地の向こうには向かい合って下総台地があった。
やきいもに使うサツマイモは、飢饉のときこれを栽培していた九州では犠牲者が少なく、これに目をつけた八代将軍吉宗が青木昆陽に命令し、小石川の植物園で栽培させ成功した。この報告書を簡易なマニュアル本とし以後、関東から全国に広まった。焼くと「栗」のように旨いと、「栗よりうまい」と洒落て、九里+四里で「十三里」と呼んだが、「栗(九里)に近い」と、八里、あるいは八里半ともいったという。川越が有名で江戸日本橋から川越までの距離、およそ13里をもかけたという。
川越からは新河岸川(しんかしがわ)から荒川に入り、これを下って江戸まで、舟便(しゅうびん)の便がよく、川越夜舟(かわごえ・よふね)との定期船が運航、幅2.5メートル、長さ15メートルの舟で、重いサツマイモや荷物だけでなく、人も運んだ。なんでも川越を夕方に出発すると、寝ている間に翌朝に千住大橋、昼には浅草についたという。川越は舟便による物資集散地として栄えた。
蛇足になるが、北斎漫画に「素麺をたべる江戸っ子」の図があり、まことに楽しく笑えるが、これは本当の話という。現在の埼玉県は、江戸期は小麦生産日本一、そんなことから川越素麺(かわごえ・そうめん)が名物だった。小麦粉を水でこねゴマ油をつけ、一本のひも状に長く伸ばして作る。現在は直線にして短くするが、江戸では、長いのをまるめ輪にして保存した。割ってゆでるのだが、これを知らない江戸っ子がそのまま茹でたから、漫画どおりになったという。(挿絵参照:北斎漫画・文化11年・1814)

浅草海苔も入っている。もちろん野菜には含めないが人気があって養殖された。江戸の生活排水は糞尿を別にしたから、適当な排水の「汚れ」はリンやチッソを適量含み、江戸前の豊かな海産物をも江戸に恵んだ。なかに浅草海苔が入る。以前は浅草でも養殖していたから、または浅草紙のように「漉く(すく)」からだ、ともいわれる。
最初は生海苔として食したが、干し海苔ができ保存食として便利になった。その他、魚はあたりまえ、貝類、ゴカイ、カニなどを産した。いわゆる江戸前ですね。
茄子の名所は「浮田」というが、江戸川区の宇喜田だろうという。墨田区、葛飾区、江戸川区のあたりに多い。寺島茄子が有名とある。また『武江産物志』には駒込がナスの産地として記されるという。ナスはどうやっても旨いが、炒めて味噌を絡めると筆者には最高だ。
鳴子瓜は四谷の鳴子瓜が有名だが、マクワウリ(ウリ科)のこと、成子村(現・新宿区新宿七・八丁目)まで、美濃国真桑村(まくわむら)が名産地だったから、ここから農民を呼び、成子村と府中で御用畑を作り栽培させたという。
「馬喰町の鴨なんばん」はどうだろう。江戸時代の大阪、浪速区北部の難波(なんば)にネギ畑が多く、ネギを「なんば」とよんだ。これが日本橋伝馬町に伝わり、「鴨南蛮」と名が変わったもの。油や唐辛子とネギを使った南蛮料理から、との説もあるが、いずれにせよネギがポイント。天麩羅そばと天南蛮では、天麩羅そばがより高価、何が違うかといえば細切りネギが入っているか否かで決まった。「ねぎなんばん」というのがあり、ネギと油揚げを入れたカケソバという。
外国の野菜は江戸時代にすでにあったのが、トマト(ナス科)・キャベツ(ハボタン)・セロリ(せり科)などだが、観賞用だったという。そういえばジャガイモも江戸時代に入っていたが、高野長英 が『救荒二物考(きゅうこうにぶつこう:1836)』を著し普及に努めた。江戸っ子はなぜか食べなかった。本当に日本に役立ったのは、北海道開拓といわれる。 ちなみに江戸時代に「イモ」といえば「サトイモ」のことだという。
三河島漬け菜というのが有名だそうだが、図を見ると白菜に似ている。ところが白菜は明治時代に清国から取り寄せたもの、江戸にはなかった。三河島菜は、今で言う白菜の代わりだったらしいが、アブラナ科の植物は、勝手に交配するから違った植物に変わってしまう。これを防ぐため、絶海の孤島で目的植物以外はすべて除去し、純粋交配して種子を得たという。かなりの手間で、農民は毎年純粋種の種苗を購入したと書いてある。
江戸では①「高台の農業」と②「低地の農業」が明確に分かれるという。高台は根が深い大根、根深ネギ、ゴホウなどに適していたらしい。低地は葉物が中心だったが水害にあいやすい。 江戸も後半になると江戸近郊農家は野菜だけ作ったほうが利益が上がったらしい。幕府は強制して米を作らせた。
江戸の農業は川の存在で成立した。重い大根やらスイカ
などはくだりの舟便で運び、帰りの上りでは下肥を積んで帰った。
目黒のサンマと竹の子などはどうか。サンマといえば落語があるが、あれは本当の話かもしれない。昭和29年1月25日の毎日新聞紙上の記事に、目黒区中目黒に「島村金一」さんというサラリーマン 、祖先が茶屋を営んでおり「彦四郎爺さん茶屋」といわれた。鷹狩で徳川家光がこの茶店を訪れ、実際にサンマを食べて感激、あたりの土地をあげるといったが、遠慮したという。で、家宝として「将軍休息の図」と「将軍御成之節記録覚(しょうぐん・おなりのせつ・きろくおぼえ)」が現在も伝わるという。
三遊亭円歌師匠が、「ありそうな話だ」といい、江戸史研究の富岡兵蔵氏が「面白い記録だ」と折り紙をつけているところから、どうやら本当の話らしい。・・・というのだが筆者はまったく知らない。
ところで竹の子は、薩摩屋敷にあった中国
からの孟宗竹を目黒で栽培し名物になった。明治になってから正岡子規が友人達と目黒に竹の子を食いに来て、給仕の娘に惚れたようだ。あの書き方は完全に惚れているとわかる。
目黒川を下ると品川だから目黒と海は近い。川という条件は江戸を考えるときの必須条件、池波正太郎 さんの『剣客商売』でも、秋山小兵衛は鐘ヶ淵に住んでおり、女房おはるがこぐ船でサッと出てくるが、「鐘紡」発祥の地である。江戸の野菜も物流も移動も、川によって成り立っていたというのが本日の眼目(がんもく:ポイント)であります。
