(08)高砂族日本兵 | 江戸老人のブログ

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(341)高砂族日本兵

軍属(1937-1945年) 126,750名  


軍人(1942年―1945年)80,433名
総数 207,183名    

戦死者数30,306名(15%)
日本厚生労働省 援護局資料.(1990年発表分)

 日本の外地であった朝鮮及び台湾では徴兵 制は施行されていなかった。しかし戦争長期化により1938年2月に台湾 人に対する【陸軍特別志願兵制度】に、台湾 総督府が雑役に従事する軍夫の募集を開始、中国 戦線の拡大により翻訳の必要から多くの【軍属】を募集、福建語、広東語、北京語の通訳に当たった。

 台湾の軍夫及び通訳の人数は機密で、一般史料では明らかにされていない。【陸軍特別志願兵制度】が施行されると多くの台湾人志願者が殺到した。1942年の第1回の応募には1,000名の定員に対し425,961名(当時の台湾青年の14%に相当)の志願者が応募、第2回には同じく1,000名の定員に対し601,147名が応募した。海軍特別志願兵制度は1943年5月に発表され、朝鮮と同時に実施された。第1回は3,000名の訓練生定員に対し316,097人が応募した。
 

 厚生省が発表した統計によれば、1937年から1945年までに台湾 総督府が徴用した【軍属】は126,750名、1942年から1945年までに従軍した【軍人】は80,433名の合計207,183名が従軍、うち15%にあたる30,306名が戦死または戦病死した。志願者の中に、元中華民国 総統「李登輝」先生がおられた。台湾 からの兵は大和魂を持っていると周囲に言わせた。

 台湾 人日本兵としては【李光輝(日本名:中村輝夫)】が有名だ。李氏は1943年に志願兵としてインドネシアのモロタイ島に派遣され、終戦を知らずジャングルの中で31年間生活し、1974年12月にようやく発見された。(終戦時の階級は一等兵)。
 1972年にグアム島でもと日本陸軍軍曹、横井庄一が、また、1974年(昭和49年)3月には日本陸軍少尉、小野田寛郎(おのだ・ひろお)がフィリピンのルバング島から帰還、世界を驚かせたが、同じ年に「台湾 高砂族出身」であった元日本兵が、インドネシアのジャングルで発見された。それほど知られていないのは、小野田や横井と比べ立場が決定的に違っていたからという。すでに日本と台湾 ・中華民国の間に国交はなく、しかもその元日本兵は、台湾 出身であるため、戦後日本国籍を失っていた。

 日本名を中村輝夫、【アミ族】の出身で、民族名をスニヨンといった。中村はその後、台湾 に戻って【李光輝】となった。為政者の都合で、一人が三つの名前を持つことになった。

 日本などから見舞金が贈られ、高砂一番の金持ちとなった。30年ぶりの生還が、消されていた【高砂義勇兵 】の存在を、そして台湾 から旧日本軍に従軍したすべての人の記憶を、歴史の表舞台に呼び戻した。

 靖国神社 は明治2年(1869)に明治天皇 により、戊辰戦争で倒れた人たちを祀るため創建されたが、祀られる戦没者の総数は二百四十七万人にのぼる。台湾 から従軍した二十一万人のうち戦死した三万人もこの中に含まれる
 

 多くの元高砂族義勇兵が、生涯に一度は靖国神社 に参拝したい、と願っていたそうだ。2002年(平成14年)4月3日、民族衣装をまとい、日章旗をかかげた三十三人の男女が靖国神社 の境内を静かに行進した。「インディアンかな」「中国人じゃないの?」と不思議がられたが、威厳を保ちつつ、神門から拝殿へと進んだ。日章旗には【高砂挺身報国隊】と記されていた。

 まことに失礼ないい方だが「台湾の土人」であったといえば理解が早い。体力と行動力が違った。ジャングルの中を裸足で駆け回り、筋力が強く猪を捕らえた。ジャングルの中で食材を素早くみつけた。

 最初、日本は彼らを蛮族と蔑視したが、実に誇り高い人々で、反乱の戦いを挑まれ、苦労をさせられた。それまでの日本側指導者は交代させられた。教育普及が強化されたという。ちなみに発見された中村輝夫の成績は、全甲(オール 5)だったという。

 南洋の戦地で、日本軍の先頭にたってジャングルを切り開き、食料を調達し、軍属であっても戦闘とあらば迫撃戦に駆り出され、自らの命をなげうって日本兵に尽くした。明らかにされる機会が少なすぎた。

 李の発見をきっかけに給与が未払で補償がないことに世論の批判も起こり、1987年9月に議員立法台湾 人戦没者遺族等への補償が決定、日本政府は1990年代に戦病死者及び重傷者を対し一人200万円(台湾 ドルで約43万ドル)の弔慰金を支払った。だが日本人戦死者遺族が受給する軍人恩給とは大きな差があり、台湾ではこれに反発する声もある。

 給与は今も未払いであり、当時強制的に軍事郵便貯金とされた給与も引き出せなかったが、これは120倍にして返却することが決まり、1995年に支払いが開始され一部の元隊員は受け取った。しかし平均1、000円ほどの残高を所持、当時としては大金だったのに120倍で引き出しても12万円。物価上昇を考慮すると、数年間の戦闘の対価としてはあまりに少額と抗議する元隊員も多い。

「カネじゃあないんだ!」と絞り出す本音を幾たびも記者(この記事はもともとは、産経新聞の連載)が聞いた。
 2002年4月、九段会館で在野での高砂族研究家・門脇朝秀氏など「あけぼの会」が招いたタイヤル族酋長らに同行した漢族の瀬亜里(80)は、ゆっくりゆっくり話す日本語で次のように語った。

 「きのう(4月3日)靖国神社 に昇殿参拝して、今、気持ちは非常に暖かい。わたしもお蔭様で長生きし、一人前になりました。もしも明治天皇がいなければ、台湾 は日本の植民地にはなりません。(しかし)学校教育もありません。日本が台湾 を五十年間植民地にしたが、その五十年間の正義(はあった)。多少なりの差別はあろうが、世界第一と数える(世界でもまれに見る発展をした)五十年、立派な五十年。厳しい法律だが、法律守れば人民は豊かになる。盗賊の心配もありません。立派な政治だと思います。

 台湾の【烏来】という地に慰霊碑がある。高砂義勇兵 の「複雑で悲しく、苦しくても、愛おしさを隠せない日本と日本人への気持ちを語っている」ような和・華・キリスト教・の混合が見える慰霊碑だという。   

 台湾で出会った高砂義勇兵 たちは、自分たちが日本人として戦ったこと、そしてそれを今も誇りに思っていると、当の日本人に知ってもらいたいと自然に理解できるそうだ。彼らの「矜持」でもあるのだろう。

引用本:『還ってきた台湾日本兵』 河崎眞澄 文藝春秋社、ウィキペディア 「台湾日本兵」