(91)子どもの楽園(総集)
『逝きし世の面影』渡辺京二著の読後感から
(分かりにくさを避けるため一部筆者責任で編集しています。)
幕府は江戸市街への車の乗り入れを厳しく制限しました。明治になっても日本の市街は子どもであふれていました。スエンソンによると、「子どもは少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわって」いました。1873年(明治6年)から12年在日したネットー(1847~1909)はワーグナーとの共著『日本のユーモア』に「子どもたちの運動場は街中(まちなか)である。交通のことなど少しも構わず遊びに熱中する。歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ人が、コマを踏みつけたり、羽根つき遊びを邪魔したり、揚げるタコの糸を乱さぬよう、避けてくれることを知っているのです。馬が疾走してきても、馬に乗るひとや御者(ぎょしゃ)を絶望させるごとき落ち着きで眺め、また遊びに没頭するのです」と述べるのです。
明治5年(1872)から4年ほど在日したブスケも「家の前で子どもたちがタコを揚げており、馬がこれを怖がるので迷惑である。親は子供たちを自由に飛び回るにまかせるから、通りは子どもでごった返している。たえず馬子が馬の足もとから子どもを両腕で抱き上げ、そっと戸口の敷居の上におろすのだ」と書いていますが、かような情景は明治20年代になっても変わらなかったようです。
フレイザーによると、彼女が馬車で街中を行くと、先駆けする馬丁は「道路の中央に安心しきって座っている太った赤ちゃんを抱き上げて脇へ移したり、耳が遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、10ヤード(9メートル)ごとに、人命をひとつずつ救いながら進むのです」と書きましたが、フレイザーのいとおしむ心が伝わってきます。
またエドウィン・アーノルドは1889年(明治22)に来日、娘とともに麻布に家を借りましたが、「子どもたちが事故を引き起こす危険はこれっぽっちもなく、どんな街路であれ、道路のまっただ中ではしゃぎまわる。優しく控えめな振る舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、私たちを魅了してやまない。手足は美しく、黒い眼はビーズ玉のよう。物おじも、はにかみもせず貴方をじっと見つめるのだ」と書いています。
これだけ多くの外国人が証言するのですから、子どもたちが街路を占領し、楽しく遊んでいたことは事実でしょう。「子どもが馬や乗り物をよけないのは、大人から大事にされることに慣れているから」とネットーは書いています。
そうはいいつつも「家族全体の暴君になっている」と続けます。またブスケも「子どもたちは、他のどこでより甘やかされ、おもねられている」ように見えたと記します。「日本人の性格からして子どもの無邪気な行為には寛大すぎるほどで、手で打つことなどとてもできることではない」とツュンペリは書きます。親としての責任を放棄した、放任や甘やかしと写ることもあったのでしょう。それでもオールコックは「イギリスでは近代教育が、子どもから奪いつつある美点を、日本の子どもたちは持っている」と感じていました。「つまり、日本の子どもたちは自然の子であり、年齢にふさわしい娯楽を十分楽しみ、大人ぶることがない」ということでした。
イザベラ・バードは「いつも菓子を用意して子どもたちに与えたが『彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいなかった』と書き、許しを得るとニッコリと頭を下げ、他の子どもにも分けてやるのだ。『堅苦しすぎるし、少しませている』」と感じたとバードは書きます。その一方で「子どもたちが遊びの時は、自分たちだけでやるように教えられている」ことに感心します。「家庭教育の一部は色々なゲームの規則を習うことである。規則は絶対であり、問題が生じた場合は、言い争うのではなく、年長の子どもの裁量で解決する。
子どもは自分たちだけで遊び、大人を煩わせるようなことはしない」と記しています。この時代の子どもは、自分たちの社会を持ち、親は温かく見守りつつ、そこには口を挟むことがなく、子どもに任せました。いわゆるガキ大将が、すべてを仕切ったのでしょうが、ガキ大将にはそれなりの資格が必要で、みなの尊敬と敬愛を受ける必要がありました。それが「世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子どもにかなうものはいない」とモースにしつこく言わせたのでしょう。
「カンガルーが自分の子どもをお腹の袋にいれ何処へでも連れて行くように、日本では母親が子どもを背中の袋に入れて(おんぶ・のこと)一切の家事をしたり、出かけたりする。子どもは母親の着物と肌の間に挟まれ、満足しきって袋から外をのぞいている。切れ長な目をした小さな主人(あるじ)が、暖められた隠れ家の中で満足し、いかにも機嫌よくしている」とネットーが書いております。
子どもたちは母親の背中に乗り、毎日の井戸端会議にも出席し、寺参りでも、お花見でも、芝居でも、長旅の巡礼でも何処へでも出かけていきました。一人で家に置かれることはなかったのです。
乳飲み子の段階をすぎると、子どもたちは、兄か姉の背にうつります。「日本の子どもたちは歩けるようになると、弟や妹をおぶう。彼らはこういういでたちで、親たちの手伝いをし、遊び、走り、散歩し、お使いにいく」とブスケが述べているのです。
多くの外国人が日本の子どものかわいらしさを賞賛しています。「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、子犬みたいに日本人の成長を、この段階で止められないのが惜しまれる」とスエンソンが述べました。微笑を誘う記述ではないでしょうか。
『逝きし世の面影』の著者、渡辺京二氏は、好評かつ有名になったこの「子どもの楽園」にも、反論があり、「これらは褒めすぎ」と批判、「明治・大正を通じて、乳幼児の死亡率は非常に高かった」ことをもってモースなど外国人への反論としたそうですが、見当はずれな批判で、①乳幼児死亡率と、②子どもを可愛がることには何の因果関係もありません。ヨーロッパでも乳幼児死亡率は高いものでした。
また子どもの虐待があったから、「これらは幻影だ」との「お決まりの反論」もあったようです。子どもに限らず虐待は犯罪で、犯罪のない社会は残念ながら世界の何処にも存在しないのです。犯罪があったから、これらの証言が誤ったものとすることには無理があります。
よき事実からは眼を逸らさせ、悪いことだけ伝えようとする日本近代の弊害があります。これだけ多くの外国人が「日本の子どもは可愛い」と証言したのです。とても嬉しいことです。なぜ素直に喜べないのでしょうか。「素晴らしいものは素晴らしい」のです。
最後に筆者のモノローグをお許しいただければ、この頃の幼児死亡率はとても高く、七歳まで、実際には15歳までは、産土神からの預かりもので、自分たちの子でありながら自分たちの子ではありませんでした。「生命の壊れやすいかたち」が子どもだったのかもしれません。だからこそ子どもたちは神秘であり、命を受け継ぐことへの畏れと愛おしさがあったのかもしれません。
引用図書:『逝きし世の面影』渡辺京二著 葦書房