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戦時中、満州に開拓団で行っていた母から聞いた話を思い出す。
昭和20年のある夏の日。
突然国境を越えてソ連軍が侵攻してきた。
開拓団だった母たち家族は畑を捨て、家を捨て、見知らぬ土地を逃げ惑うことになる。
よその村を、畑の中を、山の中を。
空からのソ連軍の機銃掃射や爆弾投下に加え、
それまで日本人に押さえつけられていた中国人や匪賊(簡単にいうと盗賊)に
日本人というだけで見つかると殺された。
自分たち民間人を守ってくれるはずの日本軍は真っ先に逃げていた。
開拓団の団長もいつの間にかいなくなり(後で逃げていたと分かる)
母の父(私の祖父)が臨時のリーダーになっていた。
何日も何日も、どこに逃げたらいいか分からず、
子供も裸足のままで、雨の中を道のない道を歩いた。
銃撃でのどをえぐられたおじさんが、のどをヒューヒュー言わせながら歩いていたり、
産気づいた妊婦が川原で子供を生み、「泣き声が敵に聞こえるから」と
そのまま川原に手で穴を掘り、赤ん坊を埋めてきた。
そうしてもくもくと行進していた。
その道すがら、二人の中国人を捕まえた。
まだ若い、二十代の男性。農民らしかった。
「中国人に、何人もの同胞が殺された。みんなでこいつらを殺すべ!!」
誰かが叫んだ。
中国人は
「私にも家族がいます。許して下さい。」と泣いて懇願したが、聞き届けられなかった。
母の父は、黙っていた。止められない、と思ったようだ。
中国人への集団リンチが始まった。
開拓団のみんな、男も、女も、手に手にその辺りにある木の枝やら杖だのを持って、「コンチクショウ、コンチクショウ」「シナ人め」「父の敵だ」「子の敵だ」と言いながら殴っていた。
もうみんな、憎しみの塊になっていた。
母はその時、12才だった。
(この人は関係ないのに・・)そう思うと、暴行に加われなかった。
でも、当時14才だった兄は躊躇無く殴っていた。
やがて二人の中国人は隙を見て、近くの川に逃げ込んだ。
川を渡って逃げようとしたのだ。
団員の誰かが、泳いでいく彼の後ろから銃声を浴びせた。
すると、一人がプカ~っと水面に浮かび、そのままうつぶせで動かなくなった。
もう一人は川岸にたどり着き、生い茂る水草の群れの先に消えていった。
後ろから何発か発射したが、
当たったのか、うまく逃げられたのか、分からなかった。
今になって、母が言う。
「あの中国人が、私たち日本人を殺したわけではないのは、
みんな分かっていた。
他に向けようの無い怒りの矛先を、向けただけ。
ただ、運が悪かったんだ。
あの中国人があの後生き延びたかどうかは分からないけれど、
生き延びていたなら確実に、日本人を憎んでいたろうね。」
中国人を虐げていた日本人と
今までの報復に日本人を殺した中国人と
殺された日本人のために関係ない中国人を殺そうとした日本人と
誰が悪いのだろうか?
戦争が人を狂気に陥れる。
憎しみは連鎖する。
火事場泥棒は確実に、犯罪であって、泥棒が悪い。
でも、命を盗られるほどの罪だろうか。
被災に遭った人の、
今まで押さえ込んでいた、行き場のない「怒り」が放出してしまった。
「今なら殺しても分からない」
この言葉にゾッとする。
どんなに平和な世界で暮らしていても人間の心の奥底では「黒い意識」が潜んでいる。
そしてそれは「倫理」や「法則」が崩壊した状況では、きっかけがあればたやすく顔を出すのだ。
Kさんが止めてくれて、本当に良かった。
泥棒を殺してしまっていたら、
被災者の方たちが日常を取り戻した時、
罪の意識にさいなまれたかもしれないから。
「怒り」もそうだが、感情を受け止めるコップは人によって大きさが違う。
日常生活でも、例えば同じ仕事、育児、ストレスを与えられても
人によって仕事が辛いと思ったり、育児ノイローゼになったり、うつになったりするのはこのコップの大きさが違うからだ。
日常からコップの許容量を大きくしておかないと、
非常時にはパニックに陥りがちになる。
催眠療法をしていていつも思うのは、この心のコップを小さくしているのは小さな小さないくつものトラウマだという事。
たった一言の親からの、周りからの言葉が、あるいは出来事が、
トラウマとなって
自分自身の心のコップに、先に膨張剤のように潜んでいて、
その後水を入れると膨張剤が水を吸ってふくらんでしまう。
そして容量の少なくなったコップは水を受け止めきれず、
水は溢れてしまうのだ。
話はズレてしまったけれど、
この非常事態はすでに戦争なのだと思う。
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