「無肥料栽培を実現する②」
(無肥料栽培を実現する①より続く)
無肥料栽培を実現するための答えは、循環だった。
いや、単なる循環農法なのでは無い。地球規模の循環である。
この循環を考えた時に、僕が最初に手をつけたのは畑ではない。全国を回ることを始めた。
色んな人と出会い、色んな山と街を見た。畑ももちろん見たが、それは二の次だった。特にお年寄りに会い、子供に会った。
とある老人ホームに行った。そこに子供達がたくさん来ていた。そしてお年寄り達は、子供達に昔話をしていた。おとぎ話ではなく、お年寄りの人生の生き様を語っていた。
そこに循環があった。
家族でも親戚でもない。お年寄りと子供達。そこに本当の循環があった。
山の中の遊歩道を歩いた。そしてそのまま川沿いを歩いて街に出た。そこにも循環があった。
山の木々と街路樹を見比べた。山の虫と街の虫を見比べた。山の水と街の水を飲み比べた。山の空気と街の空気を吸い比べた。山の日差しと街の日差しを眺めた。
循環がそこにもあった。
畑に戻って、自分の野菜を見つめた。そこには循環はなかった。循環農法だとずっと思ってきたが、そうではなかった。
何が違うのか。
それは野菜を作る意味であった。僕らの仕事は野菜を作る事ではない。地球というスケールの中で、「人」という一つの有機物の循環を完結させるための歯車となること。それが食べ物を作るという意味なのである。
農法とか栽培法という話ではない。人という有機物が幸福に生き、寿命を全うし、納得した上で循環の輪に入れるよう、手助けする事だ。
農薬であろうが化学肥料であろうが、地球規模での循環でしかない。であれば農法なんか全く関係ない話ではないか。
ただ、人が幸福に寿命を全うするために、農薬や肥料は使わないでおこうという選択でしかない。
無意味なこだわり、焦燥感、苛立ちなど必要ない。野菜がどう生きたいかだけを考えて、手助けすればいいのだろう。
そしてその野菜を食べた人たちが満面の笑顔を見せてくれれば、それで良いわけだ。そう考えると、欲というものが消え失せる。純粋な気持ちで畑と向き合えるのである。
そこに気づいた時、無肥料栽培が実現し始めた。