2005年のpart4より続く。新しい記事では去年の「私の半生5」より続く。二つ記事がブログの下書きに入っていて、1年経った。のろまなこと、亀の如く。
2000年の夏。北京で出産ということで私の母が日本から来て、うちに泊まった。じいさんばあさんも同居していた。主にばあさんが料理を作る。昼も水餃子、夜も水餃子。なぜなら昼に皮と具を作りすぎたから。母は驚いた。「餃子しか食べないの?しかも二食続けて」。娘、かわいそう。そういう目をしていた。
母が帰国するとき「うなぎでも食べなさい」と1万円をくれた。2000年、北京にうなぎはあったかな?うなぎを食べることなく、貯金した。
長男1歳、長女3歳のとき、ダンナの下の妹の娘(うちの娘と同い年)が北京にやってきた。義妹はカザフスタンで商売をしていた。中国にいる両親に娘を預ける。そのとき私はすでに同居5年目だった。私の家に家族が一人増えたということになる。私に断りなく、一緒に生活が始まる。ちょうど幼稚園に行く年齢で、娘と姪は一緒に通った。「母親が自分の子どもを見ないのはおかしい」と思うのは日本人だ。家族で助け合う。
今なら何も言わないけど、当時私は若くて青かった。なんでアタシの家にいるの?それを口に出した。幼稚園に半年通った頃、じいさんばあさんは姪を連れて広州へ引っ越した。義妹は物資がないカザフスタンにいて、両親が広州でいろいろ買い付けて、カザフスタンに送り、売った。まあまあ稼いだと思う。ただ、治安が悪く、中国人は顔を見たらわかるし、住み続ける外国人は稼いでいる人だと判断される。そして儲からなくなったので、義妹も広州へ。
私は子どもが小さくて仕事に出られない。ダンナは収入が2年ゼロということもあった。だから、本当に貧しかった。幸い、野菜は安い。光熱費も高くない。どうにか暮らせた。
中国の現代アートが騒がれるようになって、本人は行かなかったが、欧州のグループ展に出したり、外国人に絵が売れたりした。当時、中国人で現代アートを買う人はいなかった。家を買った時の借金は私の親に返した。息子がお腹にいるときにダンナは車を買った。捷达(Jetta)。普通のセダンなのに20万元。レートが1元=13円。バブルは続かない。
中国は共産主義、社会主義。結婚した時思ったのが「この人、貯金する気ないな」。勤めていれば、医療費は安く、社食もすごく安い。大きな買い物をしなければ出費は少ない。ダンナは入ると出費した。住んでいるところ以外にも土地を買い、お金がなくなって、売って。
ダンナはこの頃からほとんどアトリエにいて、子どもは市内の幼稚園に通う。週末車で私らを迎えに来て、土日だけ一家4人、アトリエで過ごすようになった。小学校高学年から、息子が週末、塾へ行くようになり、アトリエに行けず。
子どもが中学に入った後は、ダンナが日曜日に来て一泊して、月曜日に子ども二人を車で送り、そのままアトリエに戻るという状態。ずっと週末婚。連休、夏休み、春節休みにアトリエで一家団欒という生活が高校卒業まで続く。
下の子も大学に入って、二人とも寮に住んでいて、送り迎えが必要でないので、ダンナが市内の家に来なくなった。え?子ども大好き。私嫌い?忘れもしない、息子が大学1年生の9月、私は気づいた。このままだと一生会わないかもしれない(誇張)。私が行かなきゃ。いい奥さんとしか言いようがない。あちらはなんとも思ってないと思うけど。
のちにじいさんばあさんが北京にやってきて、アトリエに住むようになり、私は行ったり行かなかったり。
ダンナは一人で静かに暮らしたい人で、結婚に向いてないと自分でも言うし、他人にも言われる。私は生活が不便なところに暮らしたくない。実際アトリエの徒歩範囲は買い物が不便。車運転できないし。
私達の距離はちょうどいい。
「私の半生」、一応ここまでにする。
祝ブログ開設21執念(まま)。今思いつく二字はこれ。今度ともよろしくね。
































































