こんにちは、1月末に病気が発覚して、薬でだいぶ良くなりましたが、副作用の蕁麻疹で毎日痒いです(^^;;

体調が良いことって本当に素晴らしいことですね。

 

今日のタイトル

最近いろんなことをじっくり観察していて気づいたことがあります。それは「自分の行為の影響」です。

 

例えば新幹線の席、目一杯下げている方がいて、私がその後ろの席でパソコンで仕事したくてもやりにくい、なんてことは年に数回あるのですが、ルールとしてはそこまで(目一杯)下げても良いし、でも実際には後ろはものすごく狭くなって居心地悪い。これは、お互い様の気持ちしか解決しません。

 

私がこのように発信している側ですが、例えばこんな事を何気に書いたら?

「この前飲み屋で喫煙オッケーだけど、間髪開けずに吸う方が横にいて嫌だった!」なんて書いたら、好きで喫煙されて、わざわざ喫煙OKのお店で周りの方に迷惑かからずと思っていつもそのようなお店を選ぶ方はご気分悪いと思う。だいたい、喫煙者は人より多く税金払っている。笑

まぁ、これはもちろん作り話なんだけど。。。

 

 

 

 

相手が気分悪くされるのは不可抗力もあるから全てがなんとも言えないのですが、無人島にいない限り、人との付き合いやコミュニケーションはたとえ一人暮らしで誰とも話さない方でも、食べているものを作っている方は人だし、使っている箸も人が作っているわけで。

 

 

「その中で私たちは生きている」

 

 

これなんですよね。この意識を少しするだけで行動と行為が変わり、もっと優しい世界になるのでは。と思い、私も無意識を意識して実践の最中です。これを書いていたらちょうど飛行機の中で映画を見ていて、菅田将暉さん演じる、もじゃもじゃ大学生が、新幹線で後ろの方に「すみません、席全倒ししますがいいですか?」と聞いていました。笑笑

 

終活で優しい世界を創りたい。

そんなことを思いました。さて、そろそろ桜も咲いてくるかなぁ、楽しみです。

どうぞお元気にお過ごしください。

 

 

 

武藤頼胡

※今回のイラストは以下のところです。

https://loosedrawing.com/terms/

 

1月初めに3度目のプロフィール写真を撮りました。

今回は女性の写真家、山田真由美さんにお願いしました。

 

https://www.s-b-p.co.jp/company/ceo/

 

 

山田さんは私のことをみて、こんな感じに撮ったら良いのではないかというものを持っていてスムーズな撮影でした。出来上がり写真がこちら↓

優しい相談員に見えませんか?

いやいや、本当に優しい相談員は間違いないんですけど(多分。。。^^;)。私の強いところ、たまに真剣に相談者さんを叱ってしまうところがあるなんて微塵も感じない、私もこんな人に相談したいと思いました(笑)

 

 

これぞプロ。

そうこの撮影と写真を見て、プロってこういうこと、私も終活のプロなのだから、相手が気づいていないことを気付ける、そして「私があなたの終活の責任を取る」という気持ちをさらに強くしていこうと思った次第です。

山田さんありがとうございます。

 

 

遺影写真はこれにしよう。100歳になっても!!(笑)

武藤頼胡

こんにちは、武藤頼胡です。
久々、14時まで家にいて掃除や洗濯をしています、ゆっくり時間が流れて心地よいです。
 先ほど、テレビをつけたら、サンドウィッチマンの「病院ラジオ」でした。病院に出張ラジオ局を開設し、患者さんやそのご家族から「普段なかなか言えない気持ち」を聞き、そこから家族や大切な人への思いなどラジオを通じて話す番組です。

 


 

私とそれほど歳の離れていない女性のお話。数年前にがんを患って、一度は退院したが半年後に再発、抗がん剤治療をしていたが大腸閉塞になるだけで効かなくなっていたので「やめちゃえ~!」となり今です。とのこと。どんな気持ちかを尋ねると、たくさん海外も行ってやりたいこともしたし、山も登ったし、もういいかなと思って・・・と笑顔で話す。そして「それを主人に伝えたら、普段感情を表さない人なのに、手をぎゅっと握ってきて、そんなこと言わないでほしいと言われて。」50代半ばの女性ですが、ご主人とは結婚してまだ5年くらい。お付き合いは長いそうですが、そんな状況。ご病気と思えないくらいの肌艶と明るい方。そして、そうはおっしゃったが「笑顔でいると病気も進行しないと思う」と、先ほどの「もうやり切ったからいい」というセリフとは裏腹に、もっと生きていたいというお気持ちが滲み出ている言葉をおっしゃった。
 

 
 私は終活を何のためにしているのか、それは生きがいを持てる人生を歩むため。死ぬ瞬間には「いい人生だった」と思えるようにしようと思っています。この女性の体験を聴いて、「いい人生だった」と思うことと、「だからもう十分」と決めることは違う、そう、いろんな方のおかげで生かされ今があり、自分のためだけでなく、私の人生はその関わってくださっている方の人生でもあるのだ、わかっていても身体に染み込んでいなかったことが女性の言葉で、スッと「そこが大切だ」と新たに終活の意義や甲斐を発見したように思います。
 女性も普段無口なご主人がおっしゃった言葉でご主人との人生を歩むことに、今以上に甲斐を感じ、「もっと生きるんだ」と強く思われるようになったんでしょうね、きっと。
 

 
私はこういう終活を伝え続けたい。そう強く思いました。

 

武藤です。5年前に48歳で亡くなった、太田宏人さんの「終活」の記事を共有します。

彼は僧侶でもあり、プロのライターそして、終活カウンセラーです。私に書いた原稿をいくつもくださいました。託していただいたのです。時々目を通します、私。皆さんにも共有したいのでアップします。

ぜひ最後までお読みください。

 

終活の話  

「死を見つめると、生が浮き彫りになる」

記事:太田宏人

 

 最近、何かと話題の「終活」。

 皆さんも、何度か耳にしたことがあると思います。ただ、言葉は世の中に広まっていますが、では、実際の終活とはいったいどういうものなのかというと、「よく分からない」という方もいるのではないでしょうか。

 なかには、「終活って、エンディングノートを作る(書く)ことじゃないの?」という方もいるでしょう。

 確かに、テレビなどで終活が取り上げられると、エンディングノートが紹介されることが多いと思います。でも、エンディングノート=終活ではない。というか、「エンディングノートも終活の一つの形ですが、それだけではない」と思います。

 終活の生みの親といわれる武藤頼胡さん(終活カウンセラー協会代表理事)は、「終活は(エンディングノートなどをどう書くかという)『やり方』ではなく、『あり方』です」と説明します。

 つまり、マニュアルとかハウツーとかの「やり方」があるわけではなく、人生の終焉を見つめ、そこから、他の誰でもない自分自身の人生や「いのち」に思いをめぐらし、残りの人生を、自分らしくよりよく生きるために行う活動、ということです。生き様/死に様の「あり方」といってもいいかと思います。人生が十人十色であるように、終活も十人十色なのです。

 古代ローマには「メメント・モリ」(死を思え)という格言があったそうです。死を見つめることで生を強く意識する。死を意識することで生が輝く、という発想でしょう。

 

すべてのいのちが唯一無二

 

「終活は『世界に一つだけの花』ですよ」

 私が終活の話をするとき、こういう言い方をすることがあります。槇原敬之さんが作詞作曲をした「世界に一つだけの花」です。この歌は、人間存在の本質の素晴らしさを歌い上げていると思います。

 

そうさ僕らは

世界に一つだけの花

一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

 

 終活の目的というものには、確かに「死後のことを指示する」という側面もあるでしょう。しかし、それだけならわざわざ終活といわなくてもいい。「遺言」といえばよいのです。人生の越し方を振り返るだけなら、「自分史」でいいですし。

 そうではなく、一人ひとりが、自分のいのちの尊さを認めることが基本になると思うのです。そこを抜きに、終活はありえません。

「私なんて、大した人生を送っていないよ」

 という年老いた女性がいます。

 でも、子供たちを育ててきたじゃないですか。それがすでに素晴らしい。いや、子供を育てなくても、何かを成していなくてもいい。生まれてきただけで素晴らしい。仏教では、この世に生まれるだけで「ありがたい」と表現します。

 世の中には、約71億4000万人の人がいるということですから、71億4000万通りの「ありがたい」人生があるのです。

 体が思うように動かなくなっても、痴呆症になっても、寝たきりになっても、身寄りがなくても、それでもあなたは、世界にたった一人の花です。

 あなたの両親から受け継いだいのちは、世界にたったひとつです。

 その時に置かれた状況によって、幸や不幸を感じたり、貧富の差、寿命の長さ・短かさ、大家族の人、「おひとり様」の人。状況は違っても、二つとして同じいのちはありません。だから、すべて尊いのです。

 学者や大臣、社長の功績というものはあると思います。世に与える素晴らしい功績は賞賛されてしかるべきです。

 逆に、何もせず、親の遺産や脛(すね)をかじって、無駄に時間を過ごす人、悪事ばかり働く人、世に害悪を垂れ流す人々は非難されてしかるべきです。

 しかし、どんな人生であっても、その人がたった一つしか持てない、いのちの尊さに影響しません。なぜなら、金銀財宝も株券も、あの世に持っていくことはできないからです。棺に入れたら、燃えるだけ。名声や悪評は残るでしょうが、たいていは、あなたのことを知っている人は、百年後にはいません。

 たとえ一国の王になったとしても死出の旅路を支えてくれる者など誰もいません。誰かが殉死してくれても、みな、それぞれの旅路をひとり往くのです。

 みな、裸になって、すべてをそぎ落として死んでいきます。

 ちょうど、生まれたばかりの赤ちゃんのようなものです。生まれた瞬間、その一瞬だけは、みな一緒です。金の延べ棒をくわえて生まれる赤ちゃんはいません。ボロ布をまとって生まれる赤ちゃんもまた、いません。

 いのちそのものに、尊さがあるのです。

 仏典に「『かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である』と思って、わが身に引きくらべて、(他の生きものを)殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ」という一節があります(中村元・訳『ブッダのことば』岩波文庫/153ページ)。

 自分のいのちが大事であるということを認めるということは、他の人の立場に身になったら、みな、それぞれのいのちが大事であるということを認める、ということです。

「私のいのちが尊い。なら、私は私のために何をしてもいい。他人を蹴落としてもいい。誰の迷惑も考えず、やりたいことをやればいい」というのは違います。それは単なるエゴであり、執着であり、ワガママです。

 終活は「死を見つめることで、自分らしく生きる」とも表現されます。

 しかし、この「自分らしく」というのは、「やりたい放題」とか、我を通すことではないと思います。たとえば、奇をてらった葬儀や葬送を遺言することは、「自分らしい」かもしれませんが、私には執着(しゅうじゃく)のように見えます。そんなことをしなくても、あなたのいのちは世界にたった一つだけの花なのです。だから、一つしかない。つまり、いのちそのものに個性があるのです。

 いろんな花があります。

 一生懸命に咲いて、そして、花は枯れていきます。その時にはもう、見た目は美しくはないかもしれませんが、種から花へ、そして種へとつながってゆくいのちはの価値は不変です。

 そうして、私たちがいのちの尊さ、素晴らしさを実感するときというのは、誰かが生まれるとき、そして、誰かが去るときです。だからこそ、終活は「終焉」を出発点にするのです。私は、赤ちゃんが生まれるときに、両親があれこれとその子の未来を思い描くことと終活の本質は同じであって欲しいと思っています。

 繰り返しますが、終活のベースに「いのちは素晴らしい」という思いがなければ、単なる遺言だと思います。

 私自身は、たんぽぽみたいな花になりたいです。ああいう花を咲かせ、枯れ、枯れた花が有機物として他の生命の糧となり、そして最後は種になって、ふわっと旅立ちたいと思います。

 

 

 

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あ〜会いたいな、太田さんに。

有機物以上になっていますよ。

 

 

武藤頼胡

敬老の日を前に厚労省が100歳以上の人口を発表した。昨年より約1500人増の9万2139名、大半が女性です(男性陣頑張って!)。人生は後半戦が楽しい、と言えるようにしっかり終活しましょう。

 先日、毎月見守りをしている相談者(女性)のご自宅を訪問した時のことです。毎月2時間お邪魔するのですが、何かしらのお困りごとを聞く時間1時間、あとは他愛もない話をする時間1時間と時間割が出来上がっています。この1年はずっとマイウェイを進めており、いろんな意味で役に立っているのですが、一つには任意後見も進めていて制度そのものより、どんな生き方をしたいかをお聞きして、それを契約の中に入れるものか、見守りに入れるのかなどご希望内容によって棲み分けを私の中でしている次第です。そんな中、お葬式の希望は重々聞いているのですが、どなたにお声がけするのかを確認するため、こんな質問をしました。

「ねね、終活さん(仮名)、これからまた会いたいって思う方っていらっしゃいますか?」

質問していて、遠慮気味になってしまう私がいる。それは普段から、「今月はお医者さんと武藤さんとしか話していないわ、パーマやさんへ行かないとお二人だけよね、話すのは」と聞いているので・・・。

そしたら、言いにくそうに

「義母の甥っ子さんに会いたいなぁ、そして母のこと共有できる人ってその人だけだから、話したいのよ。でももう亡くなっていると思う・・・」とのこと。

「なんで亡くなっていると思うんです?」

「だってもう生きていても92歳くらいよ」

「最後に会ったのは何年前ですか?」

「そうねぇ、2年前に会ってないけど近いから息子さんがされているお店に行って挨拶した時にはお父さんご存命とのことだったので生きていたわ」

「それなら私、許可いただけるなら行きましょうか?」

「ほんと?ちょっと考えさせて」とニコッとされた。

そして最後に一言「会いたい人他にいないわ、友達いないから」とニコニコ話された。

なんか文字で書いていると寂しいお話に聞こえますが、本当にニコニコされていたんです。いつも終活さんは私と出会ってからおっしゃることがあります。「毎月2時間武藤さんをゲットできるし電話で毎週話せるし楽しいわ」と。お一人の時間はずっと映画を鑑賞されて楽しむ、私が行った時も5秒と間がないくらい楽しく会話。でも終了時間はピッタリ守られる。はたから見ると孤独ですが、一人を楽しみながら孤立はしていないのです。

終活さんは亡き母の一つ下の年。生きていたらこんな感じかな、なんて私も結構嬉しい。仕事にこんな感情を入れると大人数捌けず売上にならないよ、などアドバイスも頂きますが、私はそれより、この笑顔をみていたい。私がたった一人の友達になりたい。そう思っています。

もっと高齢化は進みます、単身者も増えます。さてそんな日本社会で皆さんはどんな生き方をしたいですか。私は「最期まで生き甲斐のある人生」を歩みたいです。

 

 

武藤頼胡

8月29日、30日、31日は東京ビックサイトで、エンディング産業展が開催されました。

もちろん終活カウンセラー協会も出展いましたよ。私は毎年新規のお客様との出会いも大事ですが、終活カウンセラーの皆さんが全国から来てくれるのでとても楽しみ。

 

「あ〜〜〜〜〜久しぶり!元気だった?」

 

この会話何回したことか。

そもそものこの産業展の主旨はエンディングに関わる方々が最新情報を得るためのもの。

そのため、花祭壇や霊柩車、顧客管理システム、教育研修、石材、相続や死後事務委任など様々な企業がエンディング産業の方々への新商品や自社商品のお披露目をする場となっています。うちもエンディング産業の方には当然必要な知識と学びを提供するべく出展しております。

終活カウンセラーさんは、最新情報を知る、また各種セミナーがあるので色々な知識をつける、そしてエンディング産業に関わる方々との接点をもつ場としてご参加されている方がたくさんいらっしゃって、ほぼ終活カウンセラー協会ブースに来てくださるのです。

コロナ禍で「オンライン」という便利なものを使いこなすようになり、コロナが5類に移行してからも半分以上のミーティングはオンラインのまま、もちろん効率的で便利で仕事のスピードが上がっているのも事実です。

しかし、“顔を合わせて話す”これがいかに大切なことか、ひしひしと感じた産業展でした。

次は終活カウンセラー1000回記念かな。

日本人は目で物を言う、背中を見て学ぶ、肌で感じる、阿吽の呼吸など「感じる」をコミュニケーションとして大切にしてきた文化があります。私も理屈だけでない、こういうことを大事にしていきたいと思います。

 

会って話そうよ。

死ぬまで生き甲斐持って生きるよ

 

 

近くで焼夷弾を投下したアメリカの戦闘機を落としたって喜んだんだよ。

3、4歳の私には何も理解できてない会話でした。亡き父は昭和8年生まれ、小学校の頃、戦争の経験者でこんな話を何回か幼い頃に聞かされた。この時期になるとなんとなく思い出す。

 

昭和18年から19歳になると徴兵検査を受けなければならなく、翌年には17歳に引き下げられ、志願者には15歳もいて。うちの父もあと5,6年早く産まれていたらもしかしたらと何度も考えたことがある

 

今年のお正月は沖縄で過ごした、今年初読了した本は、沖縄戦というもの。感想を、言葉で表すとしたら、なんで?という疑問だけ。もちろん、歴史的になぜ戦争になったのか知識としては皆さんも知ってると思う。でもこの「なんで?」しか出てこなかった。 

 

 

8月15日は終戦から78年が経った。

78年前のこの日、父を含む先人たちはどんな思いであったのか。

 

争うために生まれてきたわけではない、死ぬために生まれてきたのでもない。

 

 

 

先日のNHKで元桜花の乗組員だった90代の男性インタビュー。どんな思いで?の問いに「家族を助けるためなんだ、これしか思ってませんでした」と。なんと辛いインタビューでそしてなんと悲しい答えでしょう。これがまだたったの78年前の日本なんです。

 

19時過ぎて缶ビールをあけた。

この一口目が美味しい。私は生きている、色々あれど生きてる。この世に生まれたのは先人、祖先のおかげ。ここまで生きてこられたのは周りの方のおかげさまです。世界の全員がふとこのことを思うだけで悲しいニュースは減るのではないか。政治的なことはよくわからないが、人が人としてあるためにまずはここが肝要なのではないか、そう思う。

 

戦争なんて要らない

 

 もう15年前のことです。母が亡くなってすぐに継父は癌になり追いかけるように亡くなりました。継父の弟さんから、もう長くないからうちの母の納骨も、兄(継父)と一緒にしましょうと言われており、母の遺骨は1年半くらいうちに居ました。

 

継父が亡くなったときのこと、年末でお正月迫っているとのことで急だけど納骨するから、遺骨持ってきて。と弟さんより連絡がありました。私も仕事を急遽休み(その頃は個人事業主)、母の遺骨と共に新幹線に乗って三島へ。無事にお寺に着いた時、母の時に導師をされた住職が居ました。正直、母の葬儀の時の印象が悪く、私の母の思い出を話されていたのですが、おそらく勘違いで他の方のことをおっしゃっていて、お布施がわずかだったのか(その頃は継父が用意したので不明)、お経をあげてくださった足で帰ってしまい😅 それ以来の顔合わせでした。

 

 

住職「あ、娘さん、遺骨をこちらに」

私「はい」

住職「あれ?仮の位牌は?」

私「仮の位牌とは?」(まだこの仕事についておらずよくわかっていない)

住職「弟さん、仮の位牌のままだよね?」

弟「確かそうです」

住職「じゃ、それがないと供養ができない、取りに行ってください」

私「私の家、ご存知の通り東京ですが新幹線乗って再度きた方が良いですか?」

住職「ないとできない」

 

弟さんが見かねて・・・

「住職確かにそうかもしれませんが、頼胡さんも東京からわざわざきて、私も位牌も持ってきてとは言い忘れ、今から撮りに行くのは難しいので、すみませんがこのまましてもらえませんか?」

 

住職「わかりました・・・」

 

空気がものすごく悪くなり、私もなんだかどよ〜として。何をしたか全く覚えておりませんでした。

 

私も今では多くのことを学ばせていただき、上記のような失敗はない(と思いたい)ですが、供養において大事なのはしきたりよりもその思う気持ち、それを私の子供に伝えて行くことではないかと思います。

さて明日は母の命日より5日早いですが、旅行かねてお墓参りに行ってきます。

皆さんも水分補給お気をつけくださいね!

 

 

武藤頼胡

こんな相談もよくされます。

確かにわかりにくいよね・・・。だって今まで「縁起でもない」と言うことでそんなお金の話するなんてタブーだし、そんな話自体をするなんて家に何か起こってしまうかも!!

と日本人の基層概念が私たち一人ひとり、DNAとして残っているから理由はわからないけどなんか嫌だもんな。なんか。

 

 

 

そうそう、車買う時、友人に「ねね?免許取ったんだけど、車っていくらするの?」

こんな抽象的な質問しますか?

おそらく、「中古の1300ccくらいの車でわりと新しくて距離も3万キロ以内の車っていくらくらいからあるの?」など多少の条件つけて誰かに尋ねます。

しかしお葬式についてはこの「多少の条件」すらわからず、「お葬式っていくら?」となってしまうのです。

 

この解決方法は、生前見積もりを取ること。

これにかぎります。そうなるとどこで?となりますよね。お葬式は結婚式と違って自宅からそうそう離れたところで執り行うことはないので、近所で1箇所くらい看板を見たことあるなぁなどありませんか。まずはそこに行き、見積書をもらってください。そうすると「あ〜こんなことも必要なのか」など費用の構成もわかると思います。

 

そして、ひとつ見積書をもらった時に確認いただきたいのは、私たち素人が見てもわかる内容の見積書であるかどうかです。だって今まで縁起でもないということでタブーとされていたのですから、いい大人でもこの分野に関しては「知らなくて当然」です。そんな私たちが見てもわかる内容で出す葬儀社さんは第一関門突破です。

また事前相談に行く際には

・予約をしていく

・エンディングノート(マイウェイ)を書いている方は持参する

・入るお墓が決まっている場合はその情報(宗旨宗派があるかを知るために)

・万が一何かあった際、葬儀の参列者はどのくらいなのか(だいたいで良いけど)

このくらいは答えられる準備があるといく側としても安心かと思います。

 

 

前回書いたけど、お葬式って本当に大切です。法律上の死は確かに心臓が止まって瞳孔が開いてとありますが、大切な家族にとってそうではなく、ずっと生きているんですよ、心の中に。いや見えないだけでいつもいる気がするんです。その違う世界にいく家族が遺してくれるものをしっかり受け取る、味わう場がお葬式だと私は思います。

 

みんながお葬式を大事にするときっと愛のあふれる世界になるんだろうな。そう思う。

 

暑い、本当に暑い。雨の被害も出ている地域も多々あります、みなさん無事にそして元気にお過ごしくださいね!

 

武藤頼胡

このようにおっしゃる方が多くいます。なぜと聞くと「高いし、別にそんな式しなくても私は良いと思っている、来てもらうのも悪いし」

この仕事をしているからこそよく聞くセリフです。

そもそもお葬式の意味ってなんだろう、ネットで検索したら約7,600,000件もヒットした。

 

 

告別式という今の形の始まりは明治34年と言われていますので庶民に広まったのは昭和に入ってからです。そう思うと「これだ!」という定義ややり方よりも、大切な家族が亡くなった時にその死を通じて私たち生きているものは何を受け取り、聞き、今のいのちの意味を後世に伝えていくのか。

これを感じられるものがこのお葬式ではないかと私は思っています。

 

 

私の母は64歳で亡くなりました。今生きていたら81歳です。母が亡くなったとき、亡骸をずっと見つめていたら母が私に「死んだらこうなるんだから、今頑張って生きなよ」と言われている気がしました。実際にはもちろん何も話すこともない母ですが、一生懸命向き合っていたらそんな気がしたんです。私にとってのお葬式は「故人の最後の言葉を聴く場」と大切なものです。

 

私の時も「高いお葬式ではなく良いお葬式」をしたいものです。

その良いお葬式が高いのか、安いのかは別問題ではないではないかと。

効率化の世の中になって、意味のわからないものはやめておこうという風潮です。このお葬式の意義や意味は私たちみんながいろんな方の死をもって習っていくことではないかと思います。

 

 

親は死をもってなおも子供に生きる術を教えてくれる、本当にありがたい存在です。

 

あ〜暑い夏が本番に近づいてきました。水分補給をこまめにとって乗り切ってくださいね