David Livingstone デイヴィッド・リヴィングストン | 独言の『光る風便り』鉛筆で描く肖像画 寄川靖宏

David Livingstone デイヴィッド・リヴィングストン

David Livingstone デイヴィッド・リヴィングストン
 

われわれはリヴィングストンを老人のように思いがちであるが、彼が1865年に最後の遠征に出発したときは、まだ52歳にすぎなかった。
そしてその頃にはすでに、アラビア人が「天恵(バラカ)」と呼んでいる資質を十全に備えていた。
どういうものか信じがたいことであるが、彼は高揚する生命力にあふれ、かつてないほど健康そうに見受けられた。
彼がただそこにいるというだけで、彼に逢った人は誰でも幸福感にひたったものらしい。
アラビアの奴隷商人たちまでがそう感じ、自分たちにできることなら何なりと手を貸すのだった。
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ウジジに来たころの彼(スタンレイ)はまだ30歳にすぎず、やっと成功への出発点にたったばかりであった。
彼の中では厳しさ、迅速さ、自己中心性ということが最も優先していた。
彼が最も明瞭に欠いていたものは「天恵」であった。
世界中でリヴィングストンとスタンレイほど互いに違った二人の人物はいなかったし、あるいはまた、当時互いにそう見られていた二人の人間もいなかった。
リヴィングストンは薬、補給物資、外界からのニュースを必要としていたのに、若い来訪者はそれらの全部を持っていた。
スタンレイはこの高名な人物を捜し出すという名声を---彼の愛用語で言えば「栄光(クドス)」を必要とし、現にそれ以上のものを受け取っている。
コウプランド教授の言うように、彼のリヴィングストンとの短い交友は「彼の生涯の最も崇高な経験だった。彼は偉大な人物の身近に接して、その偉大さに驚嘆し、その擒になっていた」。
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ひどい地方だった。
小縦隊は延々と続く湿地を踏み渡り、チタムボという名前の酋長の部落の近くでリヴィングストンはすっかり弱って、担架で運ばれなければどうにもならなかった。
1873年5月1日の早朝、少年たちが彼の小屋にやってきてみると、彼は死んでいた。
祈りの姿勢でベッドに跪いたままだった。
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1874年4月18日、リヴィングストンはサザンプトン行き特別列車に乗せられてウェストミンスター寺院へ向かった。
その日、イギリス中が喪に服した。
ロンドンではサヴィル町にある王立地理学協会の地図室でお通夜が行われ、翌朝葬列が出発を始めると沿道には沈黙の長蛇の列をつくった。
寺院へ入るにはチケットを買わなければならなかったが、寺院の中は人でいっぱいだった。
スタンレイとグラントとカークが遺体を墓場へ運ぶ官衣持ちに加わった。
今日、ウエストミンスター寺院の第一扉から入って本堂へ下りてみると、最初に無名戦士の墓があり、そのちょっと向こうにリヴィングストンの墓がある。
灰色の墓石に嵌め込まれた真鍮の文字盤に刻まれた墓碑銘には次のように書かれている。
「忠実なる手によりはるかな大陸から海を越えて運ばれたデイヴィッド・リヴィングストン此処に眠る。伝道師にして探検家、博愛主義者であった。1813年3月19日、ラナークシャーのブランタイアに生まれ、1873年5月1日、ウララのチタムボの里に没す。30年の長きにわたり、中央アフリカの原住民に福音を説き、知られざる秘密を探求し、現地を荒らす奴隷売買を抑止するためにたゆまぬ努力を重ねた。その最後の言葉は---『わたしがこの孤独に付け加えることのできるものはただ祈りあるのみ。アメリカ人であれ、イギリス人であれ、トルコ人であれ、この世界の痛々しい傷口を癒やす努力を惜しまぬすべての者に、天の豊かな恵みよ来たりませ』」
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『白ナイル ---ナイル水源の秘密---』
(アラン・ムアヘット著 篠田一士訳 筑摩書房 1970年刊)

 


ナポレオンがモスクワから退却したあくる年の1813年、デイヴィッド・リヴィングストンがラナークシャーのとある工場町で貧窮のなかに生まれたとき、アフリカはいまだ未知の大陸であった。
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スタンリーと一緒にいるのがよほど嬉しかったのであろう。
スタンリーの結論的な感想はこうである。
「4ヵ月と4日、わたしは先生と、一つの家、一つのボート、あるいは一つのテントの中で暮らしたが、先生には何一つ欠点が見いだせなかった。わたしは短気な人間なので、これまで、たぶん大した原因もなしに友情の絆を切ってしまったことがままあったのではないかと思う。だが、リヴィングストン先生に関するかぎり腹を立てる種になるようなものは何もなく、先生と暮らしていると、日々感嘆の念がつのるばかりだった」
スタンリーと別れて五日後、リヴィングストンは次のような感動的な祈りとともに自分の誕生日のことを日誌に書き記している。
「誕生日。
私のイエス、わたしの主、わたしの生命(いのち)、わたしのすべて。
いま一度わたしのすべてをあなたに捧げます。
ああ、恵み深き父よ、われを受け入れ給え。
願わくはこの年の暮れる前にわが仕事を終わらせ給え。
イエスの御名においてお願いいたします。
アーメン、御意(みこころ)のままに。
デイヴィッド・リヴィングストン」
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29日、リヴィングストンはひどく苦しみながらバングウェウル湖の近くにあるルリマラ川を運ばれて渡る一方、何人かの部下がイララ地方にある酋長チタンボの村にリヴィングストンのための小屋を建てるべく出たかけていた。
ここですでに人事不省に陥っていたリヴィングストンは、木の枝と草のベッドに寝かされた。
午後になると、スシの差し出すクロノメーターのネジを巻くことができるほどには回復した。
そのあとで、弱々しくこうたずねた。
「ここはルアプラ川か」。
スシがそうではないと答えると、「ルアプラ川まで何日かかるのか」、「三日でしょう」とスシは答えた。
一人の少年が小屋の戸口の内側で眠っていたが、1873年5月1日、夜明けにはあと一時間ばかりという頃、スシとチュマを呼んだ。
彼らの主人は白髪まじりの頭を両手に埋めて、ベッドの横に跪いていた。
リヴィングストンは最後の地上の旅を終えていたのであった。
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どのみち、リヴィングストンの人生が失望と失敗に終わることに違いはなかった。
リヴィングストンはナイル川の水源を見つけることに失敗した。
奴隷交易に終止符を打つことに失敗した。
あれほど実現を望んでいた常設の伝道所を建てることに失敗した。
福音伝道者としても成功しなかった。
夫であり父であることにも失敗した。
唯一のリヴィングストンが失敗しなかったのは、キリスト教徒としてであったが、その謙虚な性格から、自身は「罪深く、弱い、無力な虫けらのような人間」にすぎないと考えていたのである。
「人間の悪はその死後に生き残る。善は往々にして骨とともに葬られる」。
デイヴィッド・リヴィングストンに関しては逆であった。
悪は、もしあったとしても、リヴィングストンとともに葬られた。
善は生きつづけ、成長し、勝利をおさめた。
その影響力はイララのムブラの木からアフリカと文明世界の津々浦々に行きわたり、遂には、リヴィングストンがその生涯を捧げた目的のすべてが達成された」のである。
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「解説」リヴィングストンの最後 長澤和俊(早稲田大学文学部教授)
リヴィングストンの墓は、ほかの名士の墓とともに、」ウエストミンスター寺院の墓地にある。
その墓には次のような墓碑銘が刻まれている。
「忠実な手で、海と陸をこえてきた。
宣教師、旅行家、博愛の人、デイヴィッド・リヴィングストン、ここに眠る。
1813年3月19日、ラナークシャーのブランタイアに生まれ、1873年5月4日、イララの地方チタンボ村で死ぬ。
30年間、彼の生命は中央アフリカにおいて、原住民の教化と、未発見の秘境の踏査と、いまわしい奴隷売買の廃止のため、あくことなく費やされた。
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この墓碑銘は清潔でしかも強い意志を持ったリヴィングストンのすべてを、きわめて簡潔に言い表しているように思われる。
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リヴィングストンの晩年の日記や手紙を調べてみると、彼が長い孤独な探検の末に、次から次へと絶望の軌跡を描いていったことがわかる。
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そしてついに襲ってきた悲劇的な死---それはまさに一見敗残の死であった。
しかしこのリヴィングストンの悲しい死は、それがあまりにも悲惨であったが故に、大きな感動をひきおこし、やがて彼の悲劇は大英帝国の力によって、一つずつ実現の方向にむかった。
敗北は一転して輝かしい勝利と化したのである。
『リヴィングストン---アフリカの悲劇---』
(エルスペス・ハクスレー著 中村能三訳 草思社 1979年刊)

 

かつて私は、デイヴィッド・リヴィングストンの生涯に興味をもったことで、イエスの、キリスト教の、ひいては人類における宗教というものの偉大さを、はじめて知ることとなった。
ところで私はこの人物を、はじめからもう一度描く気で、今回描いている。
今回のは、誰が残した絵なのか知らないが一枚の肖像画を基にして描いたもので、若々しくまだ幾分ふっくらした面持ちで仕上がっている絵の、たいへん希望に満ちた意欲満々な表情をも感じられるふうな、ある意味豊かさすら含んでいそうな、それをもちろん私流儀の思いを込めて描いた、その肖像画のいわば模写である。
しかしこのつぎに描く予定のは、実写真を基にした絵である。
おそらく晩年に近い時分の肖像写真で、そこには艱難辛苦を乗り越えてやせ衰え、苦渋にも満ちた憂いが見て取れるようで、しかしながら相変わらずのこの世のものとも思えぬような頑固とでも言えそうな疲労などものともしない強く逞しい意志が感じられるものである。...
つぎには是非ともそういうリヴィングストンを描く気でいるのである。
自己満足の極みのような世界ではあるが、いまからあれこれ考えていると、楽しみでしょうがない(^_^)