2010.10 5日目 タクシーに乗りゴルドのボリー村へ
 ゴルド行きの約束の1時少し前にタクシーセンターに行く。先ほどの運転手がにこにこ顔で車のドアを開けてくれた。フランスを始めヨーロッパのタクシーに自動ドアはない。頭では理解していてもぼんやりしていてついドアの開くのを待ってしまうこともある。習慣はなかなか変えられない。

 ゴルドGordesはアヴィニヨンの東40kmぐらいに位置し、そのあたりから東に山並みが始まっている。山並みはそのままヨーロッパ・アルプスにつながり、北イタリアに続いていく。
 かつてカルタゴの武将ハンニバル(BC247-BC183)が軍を引き連れてローマに攻め込み、古代ローマの名将カエサル(BC100-BC44)を筆頭にローマの戦士がガリアに出陣したのもこのアルプスの山道である。
 それ以前に羊飼いたちや荷馬車の商人の使っていた山道がアルプス山中にいくつもあり、ハンニバルやカエサルたちはこうした山道を戦略に利用したのに過ぎない。
 そのころ、地中海沿岸の都市はこぞって海上交通による交易を盛んに行っていたが、当時の帆船は風や海流に左右されやすく、暴風や海賊のリスクも大きかった。船を使った海上交易に対しアルプスの山道を使った交易は量に限りがあるものの、ローマ帝国による平定がなったあとは現代版高速道路網の安全と利便により急速に発展していった。

 ゴルドの少し先にあるアプトAptもローマ植民都市の一つとして栄えたそうだ。十字軍の遠征もこうした道路網があったからこそ、ヨーロッパ各地の騎士団がエルサレムを目指すことができたともいえるし、教皇庁がアヴィニョンにおかれたころはヨーロッパ中のキリスト教徒がこのあたりの道を通ってはせ参じたはずである。

 アヴィニョンを出発してから10分も走ると農村風景に変わり、間もなくなだらかな山道に入った。歴史のなかでは重要であったと思える道だが、いまはときおり車がすれ違うていどで人通りは少ない。
 車の窓からは、はるか彼方まで広がる牧草地と低い背の果樹園が入り交じった風景しか見えない(写真)。

 ところどころに林に見え隠れする民家が現れるが、ちらりと見える民家は木造でとりわけ変わった作りにはみえないし、すぐに牧草地と果樹園の風景に戻る。風景を見る限りは、とても住みやすそうに見える。

 南イタリア・アルベロベロのあたりは雨が少なく、そのためしっかりした木が手に入らないうえ、かつての封建領主の過酷な税金を逃れるため税金のかからない農作業小屋式に石積み住居トゥルリを建てたといわれる。
 このあたりは住みやすそうだが、やはり木が少ないから石積み住居になったのだろうか。歴史的には戦禍も多かっただろうから、燃えにくい素材を使い、小屋風にして敵の目を欺こうとしたのか。そもそもいまでも住んでいるのだろうか。
 未知の建物への疑問はつきない。未知への疑問と想像が大きいほど・・失望することもあるが・・実感したときの感激は大きくなる。

ボリー村着、農村住居博物館で石積みを予習する
 アヴィニョンを出て40分を過ぎたころ、車が着いた。運転手が指さした方向に曲がると、登り斜面の正面に石積みの低い塀とその向こうにお世辞にも洗練された美しさとはいえない石積みの住居が並んでいる(写真)。

 日差しが強いため陰影がはっきりし、無造作に積み上げただけの石の不揃いがいっそう強調され、住居の形の不揃いも加わって、不安定な印象を与える。
 素朴ではあっても力強い感じはない。むしろ、石でありながら人なつっこい雰囲気をつくっている。

 右手に入り口があり、ボリーの村・農村住居博物館の看板がつけられていた。入り口は事務所をかねていて、学芸員というよりボランティアといった若い人が入場券をくれた。
 壁に貼ってある説明はフランス語で、困っていると英語のパンフレットをくれ、5家族で多いときには40人が住んでいた村だったが、いまは歴史遺産として保存していると教えてくれた。
 博物館の展示パネル(写真)に5家族の配置図が描かれていた。

 ボリー村village des Bories の石積みの住居は紀元前に始まったこの地域独自の形式だそうだ。このあたりは石灰岩質で、畑の開墾で出た石や、むき出しになった岩盤からはがしとった石を積み上げ、住居、収穫物の貯蔵や羊、豚の小屋、干し草置き場、農機具置き場などにしたのが始まりらしい。
 アルベロベロの位置する南イタリア・プーリア地方も石灰岩質で、紀元前から石積みの納屋などがつくられたから、同じ風土条件のもとでは同じような発想が生まれるということになる。
 しかし、南イタリアではトゥルリのように洗練された住居に発展したが、目の前にあるボリーは石を積んだだけにとどまってしまった。
 パンフレットには、1900年前後、2度も大きな地震があってかなり被害を受け、1900年代後半に修復作業が始まった、とある。地震はその土地に固有であるから、以前にも地震で被害を受けたことがあり、地震に弱かったボリーは主流になれなかったのかもしれない。

石積み住居を見学する
 博物館兼事務所を出ると右手に2階建ての石積み住居があり、2階には資料や修復時のパネルが並べられていたが、室内壁はしっくいできれいに仕上げられていて中の構造は分からない(写真)。

 外部(写真)は石がむき出しなので測ってみると、石の厚みはだいたい10cm前後、石の大きさは一人でもてそうな30~50cmのものから2~3人がかりの80~90cmがほとんどで、大きいのと小さいのを適当に組み合わせながら積み上げてある。

 もちろんセメントなどは使っていない空積みである。

 隣の付属の小屋をのぞいた(写真手前が付属小屋)。内壁も石積みはむき出しで、胸高まではまっすぐ上に積みあげてあるが、外側は安定を得るためか下ほど外に広がるように積んである。

 そのため壁厚は80cmぐらいを基準に、もっとも厚いところでは2mに近い。
 胸高から上はそのままアーチ状に石の小口を見せながら天井までぐるりと積み上げ力のバランスを取っている。

 力学的には安定している作りだが、荒い石の小口が降りかかるように室内に向いているので、何となく落ち着かない。
 雨に弱いのではないかと外から確認したら、屋根瓦を葺く要領で平らな石がアーチ石の上に葺かれていた。

 残りの4家族の住居は平屋である。次の住居をのぞくと(写真)、石の大きさも壁の石の積み方も同じだが、頭ぐらいの高さまで平に積まれていて、そのあたりから少しずつ室内側に平行移動する積み方、いわゆるせり出した積み方になって両方の壁が近づいていき、身長の倍ほどの高さあたりで大きな平たい石がはめ込まれ力のバランスを取った作りになっていた。

 この方が雨が吹き込まない利点があるが、ただ石を積み上げただけであるから不安定な作り方であることには間違いない。

 室内には厚い壁に隙間をあけて棚にしたり、石を一枚だけ飛び出させて物置台にしたりと、生活の工夫が見られるものの、石の粗さが寒々としている。
 隣は羊か山羊の小屋で、平面はほぼ正方形であるが、壁の石は四方とも途中から少しずつ内側にせり出していき、頂点に平らな石をはめ込んで力のバランスを取る作り方をとっていた。四方からせり出すため、隣の両方の壁をせり出す作りよりも建物の高さは低い。

 続く3家族の住居も基本は同じであった(写真)。

 足元には材料として使われた石灰岩の岩盤がむき出していて、身近な素材が豊富であり、しかも開墾するにはその石をどかさなければならないのだからある意味ではやっかいものを逆手をとって最大限利用した農民のしたたかさは十分理解できる。

 素朴で特異な表現スタイルも歴史遺産として意義深いと思う。しかし、トゥルリが同じような石積みから始まり世界遺産に登録されるほど洗練された建築に発展したのに比べ、ボリーでは洗練された技術や装飾が見られない。
 本当に紀元前から今に至るまで、ただ石を積み上げるだけしか技術は進歩しなかった、とは思えない。
 歴史的に戦禍に見舞われ石積み住居を洗練させる余裕がなかったのか、もっと豊かな土地に移り、手頃な素材をつかった住みやすい住居へと転換したのだろうか。無人のボリーからは答は見つかりそうもない。

 車に戻ると運転手は「本当に満足したのか」といった顔でエンジンをかけた。それもそのはずで、ボリー村に1時間ほどいたのだが、帰るころに家族らしい一組が来ただけである。日本の民家博物園もよほどのお墨付きでもないかぎり概して来園者は少ない。
 学術的価値があっても現代の生活に適合しにくい場合、住み手は住みやすい現代的な住居に作り替えるか、もっと住みやすい場所に住み替えようとする。そのうえ、その土地での生活が経済的に成り立たなければ、働き口を探して出ていってしまうのは当たり前である。

 ボリーの村は、地震の不安、住み難い、仕事がないの3拍子がそろったようで、住民から見捨てられてしまった。残るは学術的価値といった高邁な思想による保存しかないだろうし、来館者や来園者もとくに関心のある者か、たまたま近くの観光に来た者に限られてこよう。
 アルベロベロは今でも生活基盤がしっかりしていて、ゆえにトゥルリが健全に維持され、そのことが世界から観光客を呼び、経済がより一層潤うことになったことを考えれば、ボリーは暮らしが十分に成り立つほどの経済基盤が確保されず、時代の流れに応じた住みやすさの工夫もなおざりにされ、地震の被害も加わるという悪循環に陥ってしまったということなのかも知れない。