スペインの旅32/59 1994年ツアー5日目  メスキータ①:メスキータは増築を繰り返し創建時の47倍に発展

ローマ神殿→キリスト教修道院→イスラム教モスク=メスキータ

 サン・ラファエルの勝利の塔を遠望しながらイスラム時代の面影を残す館の横を抜け、右に折れるとメスキータmezquitaの外壁が現れる(写真)。

 話が前後するが、古代ローマ時代、グアダルキビル川沿いの丘にローマの神であるヤヌスを祀る神殿が建てられた。
 その後ローマはキリスト教を国教としたからこのヤヌス神殿は廃棄され、ここにキリスト教会堂がつくられた。
 西ゴート王国もキリスト教を国教としていたので、ヤヌス神殿跡の教会堂を利用し、聖ヴィセンテ修道院を建てた。
 この修道院はグアダルキビル川にほぼ並行して、北東-南西軸に建てられた。

 コルドバを支配したイスラム教徒は日々の祈りに礼拝堂が欠かせず、聖ビサンテ修道院を礼拝の場として使い始めた。アブドゥル・ラフマン1世はメスキータ(=イスラム教モスク)を建てるとき、聖ビセンテ修道院の基壇を利用し、柱などの石材もこの修道院や近在の教会堂から転用した(メスキータ平面図パンフレット転載の黄色部分が聖ヴィセンテ修道院あとに建てられた初期のメスキータ)。

 これは、新たに土地を造成し、石材を調達するよりはるかに合理的であるばかりでなく、キリスト教会堂、修道院をイスラム教のメスキータが凌駕するといった旧西ゴートの人々への心理的な効果もあったと思う。

 そのため、メスキータはアラビア半島のメッカに向けてミヒラブmihrab=壁窪を設けなければならないが、聖ヴィセンテ修道院が北東-南西軸のためミヒラブが少し振れた配置になったそうだ(当初のミヒラブは現存しない)。
 アブドゥル・ラフマン1世が建てたメスキータはコルドバの発展に伴い増築を繰り返し、前図の初期黄色の部分からおよそ125m×116mの広大な建造物となった(写真web転載、写真下にグアダキビル川が流れている)。

 イスラム勢力を撃退し、スペインを統治したカルロス1世=神聖ローマ皇帝カール5世はこのメスキータの中央にカテドラル=聖マリア大聖堂Catedral de Santa María de Córdobaを建設させた(メスキータ平面図中央)。
 これは、525年間の支配を退けたキリスト教がメスキータを凌駕するといった心理的効果、と考えられないだろうか。

 モスクmosqueは英語読みで、イスラム教の礼拝堂を指す。アラビア語のマスジッドmasjid(=ひざまづく場所)がなまってmosqueとなったそうだ。
 モスクmosqueをスペインではメスキータmezquitaと発音した。普通名詞のメスキータmezquitaはスペインに建てられたイスラム教の礼拝堂を指すことになるのだが、「メスキータmezquitaは」固有名詞としてコルドバの旧イスラム教礼拝堂=現聖マリア大聖堂Catedral de Santa María de Córdoba=カトリック教会コルドバ司教座を指す。
 これはカルロス1世がメスキータ内に教会堂を建てたことによるのであり、現地の英語版パンフレットにはMosque Cathedral of Cordobaとイスラム礼拝堂とキリスト教大聖堂を混在させた表記になっている。
 まさに、イスラム教とキリスト教の相克の典型と言えよう。

アブド・アッラフマーン1世によるメスキータ創建
 前述したが、アブド・アッラフマーン1世=アブドゥル・ラフマン1世が最初に建てたメスキータは約42m×74mであった(メスキータ平面図の黄色部分)。イスラム教ではメッカにあるカアバ神殿への礼拝が基本で、そのためメッカ=カアバを示すキブラqibra=聖なる方向を示す壁がまず建てられ、そこにミヒラブmihrab=壁窪が設けられる(現存しない)。
 最初のメスキータは、東南側の長さ70mのキブラに垂直な11列の身廊で構成され、清めのためのパティオpatio=中庭と井戸が設けられたようだ。
 コルドバの発展に伴いメスキータが手狭になり、アブド・アッラフマーン2世=アブドゥル・ラフマン2世の代に南西に増築され、約70m×72mに広がった(メスキータ平面図の初期メスキータ黄色の南東側・薄橙色が第1期増築部分)。当初のキブラ+ミヒラブは南西側に移設された。

 イスラム教では1日5回の礼拝を信者に知らせるためにミナレットminaret=塔(al-minar、manar、minarなどと呼ばれる)が不可欠である。
 当初の塔は高さ23.5mで、アブドゥル・ラフマン1世の息子であるヒクセム1世によって建てられたが、アブド・アッラフマーン3世=アブドゥル・ラフマン3世は現在に残る高さ47.5mの塔を建て直す(写真、メスキータ平面図左下)。

 およそ2倍の高さの塔を建てたのは、より広範囲の信者に呼びかける実利もあったであろうが、かつてのキリスト教国を占拠しているイスラム教の権勢を誇示する狙いもあったと考えるのが順当であろう。それは、この後の増築や内部空間の豪壮さと軌を一にする。

 コルドバの発展はさらに続き、961年、アブドゥル・ラフマン3世の後を継いだハカムAL HAKEM 2世はメスキータをさらに南東方向に増築し約116m×72mに広げた(メスキータ平面図のオレンジ色が第2期増築部分)。
 キブラ+ミヒラブは南西の壁に移され、11列の身廊も南西方向に伸び、11列の中央にミヒラブが配置された。

増築に増築を繰り返しメスキータは47倍の広さに
 981年、アル・マンスール・イブン・アビ・アーミルAL Mansurが後ウマイヤ朝の最高権力者につく。このころイベリア半島のほぼ全域がイスラム勢力の支配下に置かれ、コルドバはさらに繁栄した。
 987年、アル・マンスールはメスキータを北東に増築させ(メスキータ平面図の赤色)、およそ125m×116mの正方形に近い形にする。
 アブド・アッラフマーン1世=アブドゥル・ラフマン1世が建てたメスキータの47倍もの広さになった。これが現在に残るメスキータである。

 身廊は北東側に8列増え19列となったが、ミヒラブの位置はハカム2世の時の11列の中央のままとしたため、方形のメスキータに対してミヒラブの位置はバランスを崩している。イスラム教における礼拝はメッカ=カアバの方向さえ確定できればいいので、部屋の形に対しミヒラブがずれて配置されていても支障はなかったと思える。
 メスキータの増築にあわせパティオも北東側に増築されため、全体としてはおよそ125m×176mの広さが現在に残されたメスキータになる。

 メスキータはそうしたヨーロッパキリスト*アラブイスラムの歴史を思い起こさせる舞台であると同時に、キリスト文化とイスラム文化が全力でしのぎを削ったその極地を目にすることのできる現場でもあり、そのことが人々を引きつけ、訪れる人を感激させるのである。

 125m×176mのメスキータは外周を堅固な壁で囲っている。壁の上にはイスラム独特の胸墻(きょうしょう)と呼ばれる段々の射撃用立ち上がり壁が設けられていて、要塞を思わせる。
 北西面に設けられた門(写真)は馬蹄形のアーチで縁取られ、門上部にも細身の柱に馬蹄形アーチを重ねていて、どこから見てもイスラム建築に見える。

 このことは、レコンキスタ後のコルドバの人々がキリスト教を回復したにもかかわらず国土を奪い去ったイスラム教のメスキータを捨てようとしなかったことを意味しよう。

 カルロス1世=カール5世(1500-1558)がメスキータを大改造した大聖堂建設を認めたとき、コルドバ市民が猛反対をしたそうだ。それほどメスキータの魅力が強く、コルドバ市民の誇りになっていたということであろう。