第一話「落葉の音を聞いた日」
午後五時の空は、もう秋の気配を帯びていた。
重たい灰色の雲が、空を水平に走っている。
雨粒は細く、途切れがちで、何かを隠そうとするような優しさで地面を濡らしていた。
佐伯沙織は、言葉少なに母からビニール袋を受け取った。
中には五百円玉がひとつ。
「白いパン、いつものやつ」
母の声に、うなずくだけで家を出る。
彼女の足元には、あの銀杏の落葉が一枚、落ちていた。
銀杏並木の道を通るのは、いつも少しだけ怖かった。
葉のひとつひとつが、まるで眼球のように思えることがある。
見られている、とは言い過ぎだとしても、
"記録されている"という感覚──沙織はそれを時々感じていた。
自転車のペダルを踏む。
銀杏の匂い。冷えたアスファルト。
通りの向こうに、銀杏の大木が見えてきた。
その根元に、一瞬だけ人影が見えた気がした。
止まろうとしたが、なぜか体が動かない。
代わりに、まるで誰かに押されるように、自転車のハンドルがぐいっと左に切れた。
タイヤがツツジの植え込みに突っ込む。
ブレーキ音。金属が軋む音。
倒れた自転車の脇で、沙織は何かに引き寄せられるように、立ち上がって歩き出した。
ふと、耳の奥で音がする。
「──みてたよ」
風の音じゃない。
それは、誰かが、ずっとそこにいたような声だった。
佐伯陽子は、その時間、ほぼ無意識に食器を洗っていた。
水音の中に、小さな音が混じった。
……かすれた木の葉の音。
なのに、聞こえたのはそれではなかった。
「……戻ってこないよ、あの子」
え!誰の声?
思わず水を止める。
まるで遠い昔、夢の中で誰かがそう囁いた気がした。
銀杏の木の下で、泣いていた小さな背中。
なぜ今その記憶が──。
携帯電話が震えた。
ディスプレイには見慣れない番号。出ると、抑えた声の警官が言う。
「お母さまですか。佐伯沙織さんの自転車が、公園通りで見つかりました。お嬢さんは……まだ見つかっていません」
現場に駆けつけた陽子は、まるで異空間に踏み入ったような感覚に陥った。
街路樹の足元、ツツジの茂みの中に、赤いサドルの自転車が倒れていた。
だがそれだけではない。
近くの銀杏の木に、ありえない数の葉が落ちていた。
まるで秋の終わりのような、黄金色の絨毯。
ほかの木は青々としているのに、その一本だけが、明らかに“終わって”いた。
その木に触れた瞬間、陽子の中に映像がよぎった。
20年前。
雨の夜。
赤い車のライト。
女の子の叫び声。そして、
──その小さな体が、銀杏の幹に叩きつけられる瞬間。
それは夢? 記憶? それとも、木が見せたもの?
「……あなた、何を見たの……?」
陽子が思わずそう囁いたとき、風が吹き抜けた。
銀杏の葉が音を立てて揺れ、足元でひときわ大きく舞い上がる。
その風の中に、確かにあった。
「また……来たね」
──そう言う声が。