2種類の「信じる」行動
- 信じた結果を、すべて引き受ける覚悟を持っている
- 信じられそうな人が言ったから、自分もそれに従う
一番身近な「自分」を信じていますか?
まず、「自分の感覚」を信じられなければ、「信じる」という感覚は理解できません。
子どもの頃、周囲の大人から色々言われ、やって良い事・悪い事を学習しますよね。ただ、そこには「自分には合わない」というネタが沢山入っているんです。
そこで、コレは違うのでは?と思い、葛藤するのが「反抗期」。だから、反抗期が来たら、押し殺されてきた「自分の感覚」が開花しているんだ~ と、喜んでくださいね。ただ、むしゃくしゃしても、モノを壊したり、自分や他者に危害を加えてはいけませんよ!
「自分の感覚」を受け入れ、認めたら、だんだん落ち着いてきます。
ココでのポイントは
- 「自分の感覚」を感じ、信じることは「自信」そのもの
- 自分を信じられなければ、他者を信じられるわけがない
「自信」とは、内側から湧くモノ
その「自信」は「自分の内側から湧くモノ」。外から頂くモノではありません。
外からもらう「自信」の一例が「ブランド物」「キレイな容姿」……よ~く考えてくださいね。それって「ハリボテ」じゃないですか?
「ブランド物」は、高価=他人が欲しがるから価値があります。つまり、ここで注目されているのはアナタではなく「他人の目」「おカネの力」ですよ~。
「キレイな容姿」は、だれが決めたんでしょうね。それ「マスコミ」じゃないですか?その証拠に、俗にいう「キレイな容姿」は年々変化しますよ~。
大企業が「おカネ」のために流行をつくり出し、それをしていれば「他人から変だと思われない」「安心」と流布。消費者が「他人の目」を気にして「おカネ」を使う。その「他人の目」「おカネの力」に裏打ちされた「ハリボテの自信」を維持するために、死ぬほど働き、毎年流行を追い続け、老化におびえる……それって「自信ある姿」に見えますか?
「自分の感覚を信じる」という「自信」は自分の内側から、泉のように滾々と湧き出てきます。それは、他人と比較するためのモノではありません。しいて言うなら「昨日の自分と比べるモノ」
滾々と湧き出るので、よほどのことがない限り「尽きない」のが特徴です。
「私」という唯一無二な存在が、自然に囲まれ、神仏に支えられ、自分で考えながら「生きる目的」に向かってひたすら生きる……それが「人生」なのだと、心から信じられるのが「自信」。もちろん、これ以外の表現もありますよ~。けどね、そこに「おカネ」「他人の目」に裏打ちされた「ブランド」「容姿」などは必要ありません。
ココでのポイントは
- 自信は内から湧くモノ。目に見えないので、他者と比べられない。
- 依存は外から頂くモノ。目に見えるので、他者と簡単に比べられる。
「自信」「依存」の見分け方
「自信」と「依存」の見分け方は、自分の考えが「ある」「ない」。
たとえば「なぜ、そのかばんを買うの?」という質問に
- 一流ブランド品だから。高いから。私ぐらいのレベルだと、コレが良いと思うから。他人に変な目で見られたくないから。雑誌でコレを推していたから。
- 私の使用用途に合っているから。
1.は情報を鵜呑みしている状態。自分の考えが「ない」
2.は自分で考え選んでいる状態。自分の考えが「ある」
こんな感じで、私がよく読む「桜井識子さんのブログ・本」を見ると……
桜井識子さんの能力はスゴイと思いますよ。けどね、私は桜井識子さんの信者ではありませんから、その情報を鵜呑みにはしないんです。
私は彼女のブログ・本を読み、自分で考え「自分の感覚」=「自信」を大切にして行動していますよ~
ココでのポイントは
- 自信は、自分の考えがメイン
- 依存は、他者の考えがメイン
自信=信仰心 強要されるモノではない
生きることへの「自信」は「信仰心」に繋がります。たとえば……
無力な自分を支えるのが「おカネの力」「他人の目」と信じる人は、購買力・財産残高・フォロワー数・いいねの数……こういう「おカネの力」「他人の目」を何より重要視し、信仰します。だから、睡眠時間・食事を削り「自分・他人を犠牲」にしてまで、こういう力を維持しようとするんです。
一方、無力な自分を支えるのが「自然」「神仏」と信じる人は、自然や神仏を自分の心で直接感じ取り、何より「自分・他人を大切」にします。
本当の「信仰」は、宗教みたいに第三者が入る必要はないんですよ。「オレを信じろ」みたいな宗教家、いますよね。あなたから「おカネ」を搾り取り「多数派」という力のために利用しようとしていませんか?
病院でも「医師の言うことを聞け」という態度を取られたり、セカンドオピニオンを嫌がる所は「医療従事者に依存しなさい」「病院教の信者になれ」と言われているみたいでイヤですね~
私はそういう医療従事者とは、速攻縁を切ります。
つまり、正しい信仰を持つためには、自分の感覚を知り、考えを持ち、内から湧き出る「自信」を感じる必要があるんです。そこをがっちり固めないと「依存心」を掻き立てられ、容易に利用されます。
だってね、宗教家、医療従事者は、その道のプロですよ。弱っている人が通う施設でパワハラ・セクハラなど「各種ハラスメント」をされても「信仰」「治療」だといわれたら……自分の感情を否定・納得させることで余計「自信」を失い、足抜けできず……
こういう「悪循環」から抜け出すためにも、内から湧き出る「自信の泉を持つ」のが必要なんです。
ココでのポイントは
- 信仰は「自分・他人を大切にする」強制ではなく、いつやめてもOK。
- 依存は「一部の人だけ大切にする」やめようとすると、有形無形の圧力がかかる。
「依存から脱却したい」と考える時
ロクな反抗期がなく「親の考え=私の考え」で育つと、自分の考えがあるという発想がありません。一人暮らしをし、日々判断しなければいけなくなって初めて「私の考えって、何だろう」と気付きます。はい、私です
その結果、ご飯が食べられなくなりました。当時は1990年代。摂食障害という言葉も一般的ではないのに、拒食過食過食嘔吐 という王道を突き進みました。「私はなぜ、環境に負荷をかける行動を止められないのだろう……」ホント、悶々と悩みました。
「親の考え=自分の考え」から、初めて気が付いた自分が「変な人=認められない人」だったんですね~
「摂食障害」という言葉を知ったのは、その2年後。NABAという「自助グループ」が、某雑誌に載っていたんです。
電話番号も記載されていたのですが、そこに電話するまで5年かかりました。
NABAに繋がり、いろんな自助グループに通い始めて……気が付きました。依存症の人はみんな「自分が嫌い」なんです。
けれども、何度も「言いっぱなし聞きっぱなしのミーティング」をしていくと、そんな「嫌いな自分」を認め、暖かい気持ちで包んでくれる「仲間たち」の存在が大きくなっていきました。私を学歴・収入・美醜など「物理的価値」に関係なく「私という存在」を認めてくれる仲間に、本当に癒されたんです。
私の場合、依存症の原因は「育ち方」。親に感情をぶつける回復プログラムもあるそうですが、私はしていません。だってね、彼らはそれで円満に生活しているんですから。「必要ありません」と断りました。今考えると、この時点で「自分の考え」を貫いていますから、かなり回復していますね~
自分を信じることの大切さ
現在、自分を認め好きになり、自分の感覚を絶対的に信用できるのは……今なら分かりますよ~「神仏のご加護」です。
まだ摂食障害だった頃。ある時ぼーっとしていたら、突然「画像」が広がりました。
私は、大きなガラス皿に乗っています。下を見ると、お皿を支えるたくさんの人たち……目で見えるのは「自分の部屋」。なのに「いろんな人に支えられた皿に乗る自分」がはっきり見えたんです。
「私は、たくさんの人に支えられているんだ」と自覚した時「許された」という実感とともに、その絵は消えていきました。と同時に、首に「薄皮」が貼られたような気が……その「支えられている」「一人じゃないんだ」という「自信」が、私の首を繋いでくれたのです。
その「薄皮」は毎日貼られ、隙間をふさぎ……私を支える分厚い「自信」になっています。
摂食障害になってから「画像」を見るまで、私は8年かかりました。その間、誰かに生き方を決めてほしい、生きるのは嫌だと逃げまくり、それでも大嫌いな自分と向き合い……ドロドロの毎日を過ごしました。ただね、やっぱり「自分で考え、行動」しかないんですよ。そして、最適だと判断した道を進む。それの繰り返しで、私は自信を取り戻しました。
大切なのは「自分の感覚」
今でもたまに、物理的ではない「画像」を見ます。回復してから四半世紀以上経過し、神社仏閣巡りを始めたのは最近のこと。桜井識子さんの本を見つけたのは2023年に入ってからなので、かなりの「神仏初心者」です。
ただね、「神仏のご加護」は自然の中にあふれています。それに触れることによって、私の魂は確実に癒されました。その感覚は、神社仏閣で感じる「清々しさ」と一緒。だから、その清らかさに涙がこぼれるんです。「ホント今、自分の人生を生きているな~」と、幸せな気持ちになれるんです。
私にとっては、これが「信仰」
特別な神社仏閣に参拝しなくても、日本の伝統的な生活をしていれば「神仏のご加護」「ご先祖様のご加護」を頂ける機会は沢山あります。さらに、「自分」が「今」ココにいる、という事実を大切に生きれば、それで立派な「信仰」なのではないでしょうか