『麦と兵隊』 | 世之介@仙台東口周辺

『麦と兵隊』

『麦と兵隊』

鉄道兵として召集された父は満州に行っていた。
「肋膜をやっていたから丙種だったのに、そんな俺のところに赤紙が来るようじゃ、この戦争は負けだなと思った。」
よくそう言っていた。

オールナイトニッポンが大好きで、糸井吾郎さんに電話したり、吉田拓郎の軟弱ぶりを嘆いたり、松山千春の足寄新報を読んでいたり、面白い父だった。
(後に糸井吾郎さんにその話をしたら、「あぁ、あの方の息子さんですか!」と喜んでおられた。)

兵隊の身体検査は、甲乙丙丁(こうおつへいてい)で評価される。
最下位の丁の下に戊(ぼ)というのがあって、いわゆる問題外。
5段階評価の1ですから。
(わたし、そういう成績を取ったことがありますが、なにか。)

兵隊は甲種合格者から選ばれた。
抽選だったらしい。
つまり、抽選の甲種が尽きて、乙種もいなくなって、丙種の父に順番が回ってくるということは、言わずもがなということ。
健康体はすでに全滅。
少々問題がある丙種を投入せざるを得ない状況だったわけだ。

そんな父は軍歌が大嫌いだった。
軍歌が大嫌いなはずの父が歌っていたのが、この『麦と兵隊』だった。
『戦時歌謡』というらしい。
軍歌とはちょっと色合いが違う。
たしかに歌詞が微妙だ。

「徐州徐州と人馬は進む
 徐州居よいか住みよいか
 洒落た文句に振り返りゃ
 お国訛りのおけさ節
 髯が微笑む麦畑」

おけさ節あたりが越後人的にキーポイントかな。
カラオケでこれを歌ったら、「そういう人だったんですか!」とか言われたことがある。
どういう人だと思われたか、わかりやすいな。

詞を書いたのは藤田まさとという作詞家だけど、元になったのは火野葦平の小説『麦と兵隊』だった。
この火野葦平という作家には、従軍中に芥川賞を受賞したという面白いエピソードがあって、授賞のために小林秀雄が戦地までおもむいたらしい。
間違いなく文藝春秋の菊池寛に行かされたんだと思う。

菊地は文春や大映の責任者で、お国がやるからには応援するのが務めだと言って積極的に従軍作家を送り込んだり、戦争映画を作ったりしている。そのせいで戦後、戦犯あつかいされた。
菊地個人が戦争に賛成していたかどうかは諸説ある。
私個人としては、麻雀やら競馬やらの遊び好きな菊地が戦争に賛成していたとはとうてい思えない。
事実、戦時中最後のダービーといわれた能力検定競争に、軍人ばかりの東京競馬場で寂しそうにたたずんでいた菊池寛を、当時少年だった競馬の神様「大川慶次郎」が目撃している。
「有力な馬主でもあった菊地寛氏の持ち馬トキノチカヒも出走していたのでした。先生はステッキを片手に、ぽつねんとスタンドに腰を下ろしていました。」(大川慶次郎回想録より)閑話休題。

火野葦平はそのまま報道部へ転属になり、従軍記『麦と兵隊』によって人気作家になった。
戦後は「戦犯作家」として公職追放になったが、『花と竜』『革命前夜』など人気作品を残している。
また、南京での捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いて送っていた。
(以上、元ネタはwikipedia+私のネタ)

この『麦と兵隊』という歌が厭戦的に聞こえるのは、やはり戦場の真実を歌ったからだろう。
先ほどの1番はそれほどでもないが、2番になるとかなりしんどい。

「戦友(とも)を背にして道なき道を
 行けば戦野は夜の雨
 すまぬすまぬを背中に聞けば
 馬鹿を言うなとまた進む
 兵の歩みの頼もしさ」

戦友(とも)はすでに負傷している。
負傷した戦友を背に雨降る夜道を彼は歩んでいる。
もちろん戦場の夜道だ。

「腕をたたいて遥かな空を
 仰ぐ瞳に雲が飛ぶ
 遠く祖国を離れ来て
 しみじみ知った祖国愛
 戦友(とも)よ来て見よあの雲を」

いくぶん勢いがもどる。
それでも「戦友(とも)よ来て見よあの雲を」あたりに、
祖国愛とは言っているが、実は郷愁だと告白しているように思える。

「眼(まなこ)開けば砲煙万里
 鉄の火焔(ほのほ)の狂う中
 夕日ゆらゆら身に浴びて
 独り平和の色染める
 麦の静けさ逞(たくま)しさ」

すっかり元気が戻ったような歌詞だ。
しかし、「独り平和の色染める」と歌う兵隊の本音が見える。

「行けど進めど麦また麦の
 波の深さよ夜の寒さ
 声を殺して黙々と
 影を落として粛々と
 兵は徐州へ前線へ」

中国戦線の特徴は、その深さにあった。
南京で捕虜を虐殺したのはその深さから来るいらだちのせいだっただろう。
島国日本の兵にとって、大陸中国の戦場はあまりに広く、あまりに深かった。
首都を陥落させるたびに、新たな首都が生まれ出てくる。
重慶を無差別爆撃したのも、南京の捕虜虐殺と同じ精神状態からきていると思う。

父がよく言っていた。
「昼間、物売りに来たヤツが、夜は兵になって襲ってくる。」
八路軍(パーロ)と呼ばれた朱徳率いる共産ゲリラである。
その朱徳将軍は日本軍にも有名だったらしい。
相手にしたくないNo1だったようだ。
父のとなりにいた戦友が銃撃で命を落とした。
その瞬間、無我夢中で生まれた初めて相手を殺そうと銃を撃ったと告白していた。

その父の話によれば、日本の兵隊は日本軍としても戦ったが、実は国民党軍としても戦っている。
終戦後のことらしい。
ソ連に降伏した兵はシベリアの強制収容所へ。
中国に降伏した兵は国民党軍に編入され共産軍と戦ったらしい。
いや、共産軍に編入されて国民党軍と戦った人もいるらしい。
そういう記録はあまり残っていないようだ。

『蟻の兵隊』というドキュメンタリー映画がある。
そういう状況にいた人たちを取材した記録だという。
見てみたいが、自分が上映会を開かないと見られない映画だ。
隠しておきたい日本の歴史なのだろう。

中国戦線だけではない。
フィリピンやインドネシアをはじめ東南アジア各地で捕虜になった日本軍が徴用されていた。
この場合は重用と書いてもいいかもしれない。

日本軍は戦勝国である連合軍の兵として治安維持を行った。
現地で指揮にあたったイギリスの将校が日本兵の質の高さを評価している。
指揮官が確かなら日本兵は優秀だったのだ。

もっとも、列強の手先になっていたこの時期の方が、日本軍占領時よりも地元民の反感を買ったのではないかと、私は思っている。

なぜなら、日本軍が列強を駆逐したことこそが、彼らアジア人の希望だったからだ。
圧倒的な軍事力で威圧し、アジアを隷属させていたヨーロッパ列強が、惨めに敗北する姿は信じられないものだった。
とうていかなわないと思っていた列強の軍隊に連戦連勝する日本軍はアジアのヒーローだった。

アジア人でも列強に勝てる。
その思いは、彼らを大戦後の独立運動へと導く。
アジアの守護者としての日本兵は、彼らの独立運動に参加し勝利を得た。
日本軍の日本兵ではない。
アジアの日本兵である。

大東亜共栄圏は考え方として間違ってはいない。
実際の運用において誤りがあった。
運用を誤ったからといって、その思想までも否定するのは愚かである。

アジアの守護者としての日本兵は、たしかに存在した。
敗戦後、帰還しなかった日本兵は数十万と言われている。
(諸説あるが、数万ではなく数十万という単位のようだ。)

アジア自主独立の理想に命を捧げた多くの英霊に、
靖国に還らなかった英雄達に、光を与える時期が来ていると私は思う。

戦後60年という歳月は、正当な評価を下す時期に来ている。
侵略が何パーセントで、アジア解放が何パーセントであったのか。
一方的な歴史解釈は、戦勝国のご都合主義によって創られるものだということは、歴史の事実である。

注:「麦と兵隊」の著作権はすでに放棄されていると思って引用しましたが、問題があるならばご連絡下さい。