【全文】広島 湯崎知事「核廃絶 人類存続に差し迫った問題」

 原爆

広島に原爆が投下されて8月6日で79年です。平和記念式典で広島県の湯崎英彦知事が「核廃絶は遠くに掲げる理想ではない。今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題だ」とあいさつしました。

湯崎知事のあいさつ全文です。

79回目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。

そして、今なお、後遺症で苦しんでおられる被爆者や御遺族の方々に、心からお見舞いを申し上げます。

原爆投下というこの世に比類無い凄惨な歴史的事実が、私たちの心を深く突き刺すのは、「誰にも二度と同じ苦しみを味わってほしくない」という強い思いにかられた被爆者が、思い出したくもない地獄について紡ぎ出す言葉があるからです。

その被爆者を、79年を経た今、私たちはお一人、お一人と失っていき、その最後の言葉を次世代につなげるべく様々な取組を行っています。

先般、私は、数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。

そこでは、頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。

翻って現在も、世界中で戦争は続いています。

強い者が勝つ。

弱い者は踏みにじられる。

現代では、矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。

国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。

それが弥生の過去から続いている現実です。

いわゆる現実主義者は、だからこそ、力には力を、と言う。

核兵器には、核兵器を。

しかし、そこでは、もう一つの現実は意図的に無視されています。

人類が発明してかつて使われなかった兵器はない。

禁止された化学兵器も引き続き使われている。

核兵器も、それが存在する限り必ずいつか再び使われることになるでしょう。

私たちは、真の現実主義者にならなければなりません。

核廃絶は遠くに掲げる理想ではないのです。

今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。

にもかかわらず、核廃絶に向けた取組には、知的、人的、財政的資源など、あらゆる資源の投下が不十分です。

片や、核兵器維持増強や戦略構築のために、昨年だけでも14兆円を超える資金が投資され、何万人ものコンサルタントや軍・行政関係者、また、科学者と技術者が投入されています。

現実を直視することのできる世界の皆さん、私たちが行うべきことは、核兵器廃絶を本当に実現するため、資源を思い切って投入することです。

想像してください。

核兵器維持増強の十分の一の1.4兆円や数千人の専門家を投入すれば、核廃絶も具体的に大きく前進するでしょう。

ある沖縄の研究者が、不注意で指の形が変わるほどの水ぶくれの火傷を負い、のたうちまわるような痛みに苦しみながら、放射線を浴びた人などの深い痛みを、自分の痛みと重ね合わせて本当に想像できていたか、と述べていました。

誰だか分からないほど顔が火ぶくれしたり、目玉や腸が飛び出したままさまよったりした被爆者の痛みを、私たちは本当に自分の指のひどい火傷と重ね合わせることができているでしょうか。

人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま、この痛みや苦しみを私たちに伝えようとしてきた被爆者を一人、また一人と失っていくことに、私は耐えられません。

「過ちは繰り返しませぬから」という誓いを、私たちは今一度思い起こすべきではないでしょうか。

令和6年8月6日広島県知事 湯崎英彦

ーーーーーーーーーーーー

↑は↓より拝借しました。

 
☆の叔父は原爆投下の日、長崎市内の三菱造船所で勤務についていたそうです。
出世し、新しい大きな机を用意されて、真面目で人望のある叔父はその朝、欠勤する人に代わって、休みを返上し、出勤したのだそうです。
そして、原爆投下。叔父は瓦礫の中で、偶然、その後馬車で通りかかったおじいさんに助け上げられたそうです。
馬車に乗せ、諫早の実家に連絡をとったのでしょう、、叔父は被爆した体で諫早へ連れて帰られました。
母の弟です。母や、叔父の妻である叔母さんや、一族郎党、集まり、座敷に寝かされた叔父のために看病したのだそうです。
 
母が後に☆話してくれましたが、叔父の体はガラスの破片がびっしりと突き刺さり、小指の先ほどのきれいな皮膚も残っていなくて、血だらけ、ガラス破片だらけでねかされていたそうでした。
眼球は焼け爛れて、白濁していたそうです。何も見えない状態だったのでしょう。
叔母たちや母はピンセットでガラスの破片を一つ一つ抜いていったといいます。焼けただれた皮膚、筋肉の臭いがたまらなく辛くて、母は香水を布団にふりかけたけれど、、太刀打ちできない悲惨な焦げ方だったと。
 
☆の父は原爆が長崎市内に投下されたと知り、叔父が諫早に連れ戻されるのと入れ違いに、長崎市内へ入り、探したそうです。
母の実家の座敷にねかされていた叔父は次男坊でした。長男は海軍にとられ、シンガポール沖で戦死です。
次男坊である叔父は自宅へ戻されず、実家の両親(☆の祖父母)の元へ帰され、座敷に寝かされていたそうです。
 
実家には跡取りである、海軍の長男の子供たちがいました。幼い長女は大人たちに混じって、叔父の看病を手伝ったそうです。
 
医者は丼いっぱいの赤チンキをくれたそうで、ピンセットでガラスを抜いた跡に、赤チンキを塗っていくのだそうです。
 
叔父の命は持ちこたえることなく、まもなく亡くなったそうでした。
 
姉たちによると、母が手を真っ赤に染めて、帰宅したことを覚えているそうです。
働き手を失った叔母は苦労して、幼い二人の男児を育て揚げました。
 
父は、「あの子どん達が高校を出るまでは援助せんばできんなあ」と言っていたそうです。
父は直接、血のつながらない親戚ではありましたが、とても気持ちの優しい明治男でした。
朗らかな性分なれど、口数少な目、、慎み深い人でした。
 
☆は戦後っ子です。従妹たちとは随分年が離れ、姉たちとも一回り以上離れています。
原爆投下や戦争の話は母や姉たちから聞くだけでした。
母は実家の山のある所に簡単な家を建ててもらい、母と姉たちだけが疎開していた時もあったそうです。
姉たちは川で遊んでいたら、長崎方面の空が真っ赤に染まったのを見て、あれは何だろう、と思って見惚れていたと言います。
 
祖父は長男をシンガポールの海軍で失い、次男を長崎原爆で失い、三男坊はどこかで戦死したとの連絡が三菱重工から入り、
寡婦となった叔母は長男を抱えながら、お葬式を出したそうです。三菱から葬儀代が出たといいます。
 
3人の息子を失った祖父は、ガックリして、気落ちして、まもなく亡くなったそうです。
戦争も終わって、、暫くして、三男坊の叔父がふらりと帰国して、皆びっくりしたそうです。
三男坊の叔父は、ハワイで捕虜生活を送っていたそうで、タバコなども配給されたり、割と呑気に捕虜生活を過ごしていたらしい。
 
怒涛のような時代、、☆が幼い頃、諫早公園の眼鏡橋付近には傷痍軍人さんたちが、白い着物風のものを着て、松葉づえやなにやら装具をつけて、ハーモニカなどで、哀しくなるような軍歌を吹いていたのを微かに覚えています。
傍らにはお金を入れてもらう箱などを置いて。いつの間にか、そういう傷痍軍人の姿も見えなくなりました。
 
原爆で亡くなった叔父を看病した、実家の長女はその後、血液の癌を患い、早逝しました。もしかしたら二次被ばくだったのではないか、と、姉たちは話していたことがあります。
 
父も二次被ばくしているのでしょうが、☆たち姉妹は元気に育ちました。
ちなみに、父は二次被ばくの申請もしていません。明治男は国に頼ることを潔しとしない面があるのかもしれませんが。
84才まで生きてくれました。☆が尊敬する、大好きな父です。
 
目には目を、歯には歯を、、これでは、永遠に火種は尽きません。
原爆の式典では、各国の大使たちはどういう気持ちで演説を聴かれたのでしょう。
被爆国日本の役割は今後も原爆の悲惨さと核廃絶の願いを世界に訴えていくことでしょう。
 
生まれてきて、いかなる形にせよ、殺されて死ぬほど、怖いものはないです。無念なものはないです。
                              大阪の☆
平成18年、12月22日、兵庫県尼崎市稲葉荘、関西労災病院で、整形外科医、大和田哲雄医師に脊髄神経を殺されて、
隠蔽されて、☆の気持ちの問題だと言い放った、人間とは思えぬ医師の言動に、☆は半ば殺されました。
二度と、こういうことが起きないように、裁判に訴えましたが、司法と医師界は癒着しているようです。
なかなかの悲惨な経験をこの18年間、生きています。
この医師の人間性が理解できません。法で裁いて欲しかったのですが、歪んだ日本の制度の中でそれも叶わず。
 
                                       大阪の☆
 
↓↑我が家の宝、アビシニアン君、、大切な命です。