坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎
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なんか、なんとなく司馬遼太郎著『坂の上の雲』がひっかかってました。


ドラマは好きな俳優ばかり出てるし、本もまだ途中までしか読んでいないけど、ひとつの小説としては大好きなのに。


けど、その漠然とした感覚の原因が少しだけわかった気がします。


本日付(2010年3月30日)毎日新聞朝刊10ページの高村薫へのインタビュー記事。


彼女はこう言っています。「幕末から開国、明治に至るまでは、価値観がものすごく混乱していた時期です。・・・「よっしゃあー、新しい日本の夜明けだー」なんて言っていたのは一部の人だろうし、あとから作られた史観でしょう。」(太字は筆者による)


誤解しないでいただきたいのは、”小説家”司馬遼太郎を批判しようとしているわけではありません。神保町にトラックを持ってきて古書を買い漁るほど勉強し、その中から一つの歴史を紡ぎだしていったわけです。


到底まねできませんし、小説として坂の上の雲は名作だと僕自身思います。


ただ、ひとつ、いわゆる司馬史観を全面的に信頼するのはどうかと思うということです。


そういう意味で、高村さんの記事も司馬遼太郎を批判しているというよりは、読者が成熟する必要を暗に示しているという文脈で読み直すことができるのではないでしょうか。


「坂の上」などの最近ブームの幕末系のドラマや小説は、当時やその時代の人々を”美化”しすぎてるのではないか。


当然当時の指導者層にあたる人々の中にはこの先の”日本”の行く末を案じていたひとたちも多いのだと思います。


ただ、それにともなう庶民レベル・一国レベルの混沌をあまりにも無視しすぎているような気がします。


人々が、坂本龍馬のような人たちをスーパースター視し、潤滑な社会の変革を期待しすぎているのではないでしょうか。


最近の民主党への支持率の下落もそうですが、もう少し物事が簡単には行かないということ・忍耐というものを僕たちも知らなければならないんだと思います。


いつもながらまとまりが無いですが、この辺で。


題名では大層なことを書きましたが、こんなもので勘弁してください。

坂の上の雲、読もっと。w

会社はだれのものか/岩井 克人
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注) この本を読みたいと思っている人は結論とかがわかってしまうので、読まないでください。


岩井克人さんの『会社はだれのものか』(平凡社、2005年)、をついに読了しました。


岩井さんの本は文章が平易で、内容は推理小説に負けず劣らずスリリングで、最高に面白いです。


岩井さんの『二十一世紀の資本主義論』と出会って、経済を勉強したいと思ったほどです。



さてさてこの本は、名前の通り会社は株主のものなのか、経営者のものなのか、従業員のものなのか、それともそれとも・・・という問題に迫っています。


まず岩井さんは、会社とは法人企業のことであり、「会社=ただの企業」では無い。つまり、サントリーHDと商店街の八百屋とは違うものということを確認します。


これを混同してしまうと、会社は株主のモノでしかないという「株主主権論」に陥ってしまうというのです。


そもそも法人とは、「本来ヒトではないのに、法律上ヒトとして扱われるモノ」と定義される。つまり、法人とはヒトであり、モノでもあるということになります。


これは、会社は株主にはモノとして所有されるが、会社資産をヒトとして所有・管理するということです。しかし、会社は体を持ちませんから、それを代わりに行なうのが、経営者です。


つまり、会社は「株主⇒モノ法人=ヒト法人(経営者)⇒会社資産」、という「二重の所有関係」の構造をしているというのです。


こうしてみると、日本型の会社・アメリカ型の会社というのは、イコールの右側の部分を強調するか左側の部分を強調するかの違いでしかないというのです。


そして岩井さんが強調するのは、経営者は自己利益の追求を抑え、会社のために行動することが求められているという点です。つまり、経営者はハナから倫理性を持って行動するように要請されているというのです。筆者はこれを、経営者と会社との間の”信任関係”と呼びます。


自己の利益を追求すれば神の見えざる手・・・という資本主義において、そのど真ん中ともいえる会社の経営者とその会社の間に信任関係とも呼べるようなものが存在しているというのです!!


産業資本主義の時代には、日本的な、つまりイコールの右側を強調するような会社の仕組みがうまく働いたのだそうです。地方にいた大量の産業予備軍のおかげで賃金は低いまま維持されました。その状況下で年功序列・終身雇用・企業別組合が企業ごとに特有の人的資本の蓄積に向いていたのです。


しかし、それがポスト産業資本主義の時代になると、違い(差異)を生み出さなければ利潤が出なくなってしまったのです。新しいモノ、技術、情報をいかにして生み出すかということに焦点が移ってしまったのです。


これからは、常に違いを生み出すことのできる個人やチームの時代になっていくと論じています。



そしてタイトルの会社はだれのものなのか、という論点に戻ってきます。



最近盛んに喧伝されるCSRcorporate social responsibilityの略)とは単に、企業のイメージアップにより、長期的な利潤を最大化していくためのものでしかないのでしょうか。お得だからどの企業もやるのでしょうか。



岩井さんはここでも否、法人とは始まりはNPOのような存在で、法人企業が本来の姿ではないと言います。



そして会社が存在する意義を、「社会にとって利潤を生み出すという価値を持つ」ということだけに限定させる必要は無い。むしろ、会社が社会にとってもっと広い価値を持つはずだというのです。



ではそれは何かと言ったら、資本主義経済にも国家システムにも還元されない“市民社会”が追求する「何か」だというのです。


近代社会が成熟するにつれて、市民意識を人々は抱いてきました。そして、その市民意識を、法人としての会社にも求め始めているというのです。


それは、その市民社会によって、時代によって、捉える範囲によって異なってくるのだそうです。


~会社は、社会のもの~



というのがこの本の題名の答えだと、岩井さんはこの本を締めくくります。


私のつたない文章で岩井さんの本の内容は伝わりにくいと思いますが、とても良い意味の裏切り・驚きにあふれた本だと思います。



その他、糸井重里さん他との対談も載っています。ぜひ、読んでみてください。


こんどこの本から得たヒントで少し論じたいと思います。










日経ビジネスから送られてきた記事で気になったので載せます。以下、始まり。


人生は崖のようなもの――。安心だと思って歩いていた道のすぐ横には、実は絶壁の崖があり、その崖下に突然、一人だけ突き落とされることがある。みんなと一緒に崖の上を歩いているときには、遠くの景色も見えて安心できる。ところが崖底に落とされると、崖上ははるか彼方で、一人取り残されたと、絶望感だけが募っていく。

 だが、実際には崖底には美しい川が流れていたり、そこでしか咲いていない花があったり、崖の上で吹き荒れている風から身を守ることができたり、と、崖底でしか経験できない“いいこと”がたくさんある。それらを楽しみ、最悪だと思える環境を自分の味方にしてしまう感覚が、Environmental masteryなのだ。

 おいおい、そんなこと言ったって、そんなの無理でしょ? と突っ込みたくなるかもしれないが、Environmental masteryの高い人たちについて行われた研究からは、興味深いことがわかっている。


“崖底”は自分次第で“高台”に変わる


 Environmental masteryの感覚の優れている人の多くは、人生に対する態度がより愛情深く責任感があり、多様な年齢層の友人や知人と語りあい、ふれあう機会を大切にしていることがわかっている。そして、何らかの危機に遭遇しても、それをすぐに解決しようとするのではなく、ゆっくりと時間をかけ、その時間を決して無駄とは考えないという共通点が認められているのだ。

 崖から落ちた途端に、あわてて上に登ることを考えるのではなく、じっくりと崖底の環境で色々と試すことでEnvironmental masteryは高められるのである。

 早く解決しようとすればするほど、不安が強まり、上手くいかない事態に恐怖心を覚え、ヒステリックな状態になっていく。時間をかけて、多様な年齢層の人たちとふれあい、そこでしかできないことに一つひとつ取り組むうちに、新たな価値観が芽生えたり、自分の新たな面を発見したり、結果的に崖底が崖底じゃなくなって、見晴らしのいい高台に変わっていく。

 安定と不安定は常に背中合わせ。不安定なときだからこそ、できることも山ほどある。不安定な時間を存分に使うことが、安定への最大の近道なのかもしれないのだ。

 かつての日本を支えていた制度と新しい制度が入り交じる世の中だからこそ、Environmental masteryは高めておいたほうがいい。世間の価値観や常識を変えていくことは別次元かもしれないけれど、この感覚を高めておけば、どんな状況に遭遇してもつぶれたり、腐ったりすることはない。

 まあ、途中乗車すらできず、一人自転車をこぎこぎしている私に言われても、あまりうれしくないかもしれないけれど、不安定な自転車の乗り心地は決して悪くないものだ。

 自転車は風にも雨にも弱いし、自分でこぎ続けない限り前に進まないからそれなりの体力も必要となる。だが、晴れた日に気持ちのいい空気を思いっきり感じられる開放感は、電車に乗っていては決して味わうことができない。もし、万が一、崖底に落とされてしまったときには、時間をかけて自分の自転車に乗り換えるのも悪くないのではないでしょうか。


以上で終わりです。

もちろん満員電車にゆらゆら揺られ続けることが心地よいとは言いませんが、孤独に自転車をこぎ続けることは非常にタフなことだと今は感じてしまいます。

あと机上の空論と自分で思わないためにも実社会で働いてみたいと思う気持ちも本当に強いんですよね。。。

あと半年くらいで結論をださなければいけないですね。