『色部長門-米沢藩の戊辰戦争』 その2

2.奥羽の戊辰戦争

 奥羽では、朝廷、先に会津、庄内両藩討伐を目的として左大臣九条通孝を奥
羽鎮撫総督、薩摩藩士大山綱良、長州藩士世良修蔵を参謀として官軍を東北に
派遣した。

 慶応四年正月二十五日、朝廷は仙台藩主伊達慶邦及び米沢藩主上杉斉憲に会
津討伐を命じられた。更に、斉憲は改めて会津討伐の先鋒を命じられた。米
沢、仙台両藩は戦乱を治めようと、会津藩に降伏をすすめ、奥羽鎮撫総督に対
しては会津討伐の中止を建言しようとした。

 閏四月九日、上杉斉憲は米沢を出発して十一日白石につき、伊達慶邦をはじ
め、集まった奥羽諸藩の重臣と会議し、松平容保に対して寛大の処置あるよう
に嘆願することにした。翌日、斉憲は慶邦と共に岩沼の総督府へ行き、
 九条総督に容保を寛典に処せられ直ちに征討軍の中止を請願した。総督は回
答を後日に約束した。

 同月十九日、会津赦免の嘆願は期待に反して返却され、その文中に「松平容
保は朝敵にして天地にいるべかちざる罪人につき、御沙汰早々に討入成功を奏
すべし」とあり、参謀世良修蔵が当時新庄にいた大山参謀へ送ろうとし密書中
に「仙台、米沢を始め奥羽を皆敵と見て、直ちに討伐の大兵をくだし、更に酒
田沖へ軍艦を廻し、前後挟撃して攻め滅すべし」との意味のことが書いてある
ことを発見した。

 奥羽諸藩は薩長の態度に憤慨し、閏四月二十三日奥羽諸藩使節は白石城で会
議した。その会議で、再び嘆願してきき入れられなければ、横暴な薩長を除く
ために戦う、所謂、白石同盟が結ばれた。これ、仙台、米沢を盟主とする奥羽
二十六藩加入のもの、更に北越六藩も加わって奥羽越列藩同盟に発展し、彰義
隊等の残党も加わって官軍と戦うことになった。

 越後方面では、さきに、朝廷は高倉永祐を北陸道鎮撫総督(後に会津征討
総督兼務、薩摩藩士黒田了介、長州藩土山県狂助を参謀として北進してきた。
これを防御しようとして会津藩も越後に出兵し、旧幕府方もこれに参加した。

 しかし、官軍優勢で会津兵等は大敗して柏崎に退き、まもなく、会津、米沢
の国境に迫る形勢となった。そのため米沢藩も五月一日、中条豊前を先発とし
て大軍をおくり、総督千坂高雅、参謀甘粕継成を中心として同盟軍とも連繋を
とり、共どもに戦い、五月二十六日の小栗山の合戦をはじめとして大面山切通
合戦、帯織村会戦、長沢村合戦、大口村合戦、半蔵金山合戦、与板山合戦、大
黒村合戦をへて七月二十四日、二十五日の長岡城回復合戦までは多くの犠牲者
をだした激戦であったが、味方に有利に展開した。

 つづく