細井平洲と興譲館の建学大意


 安永五年(一七七六)九月十二日は米沢藩の招きで細井平洲が米
沢に着き、藩学「興譲館」の学則を定めた日に当たります。


 細井平洲は、尾張国の人で、姓は紀・諱は徳民・字は世馨、通称
は甚三郎、生まれた地名、平島村の名に因んで、号を平洲と称しま
した。平洲は中西淡淵の門下で、学問は折衷派に属し、遺徳と経済
との調和を求め、実践窮行を第一義としました。政治には輿論(よ
ろん)政治を提唱して民主的傾向をもち、教育的感化力の大きいこ
とでは、当時随一と云われていました。


 細井平洲に学んだ主な人を挙げますと、藩主では、米沢藩主上杉
鷹山公をはじめ、紀州藩主徳川治貞公、尾張藩主徳川宗睦公等があ
り、他に門下として著名な人では、米沢の神保蘭室、久留米の樺島
石梁、与野の聖人と称された西沢曠野、寛政の三奇人の一人高山彦
九郎、渡辺華山の師で鷹見星皐、藤田幽谷の師立原翠軒等の傑出し
た人材が多い。


 また、細井平洲の学徳を慕い、その説を信奉した人に、二宮尊
徳、吉田松陰、西郷隆盛等があります。二宮尊徳は細井平洲の著書
「野芹」を愛読し、西郷隆盛が二宮尊徳を評して『尊徳は細井平洲
の著「野芹」の説を活用し実際に応用した人である』と述べていま
す。


 西郷隆盛自身もまた、細井平洲の著「嚶鳴館遺草全六巻」をみず
から写し、土持政照に与えていますが、その折「民を治めるの道は
この一巻を以て足れりとす」と述べています。


 細井平洲は、上杉鷹山公が十四才の時からその御師範となりまし
た。これは米沢藩の医師で、上杉重定公の御側医を勤めた藁科松伯
の斡旋によるものでした。


米沢の歴史を見える化

 藁科松伯は博学で識見が深く、医者であり、学者、政治家の風格
を兼ね、天才として市内の信望を集めた人でした。この松伯が辻講
釈をしている細井平洲の人物に打たれ、家老の竹俣当綱に入門を勧
め、続いて米沢藩中興の志を同じくする青年政治家が続々入門し、
この人こそ鷹山公の御師範たるべき人であるとして、御推挙に及ん
だのでした。


 鷹山公が十七才で家督を受け、十九才で米沢に御入部になりまし
たが、この時、細井平洲は「米沢侯、国に就くを送る序」の一文を
献じました。この一篇は切々と藩主の心構えを説いたもので、その
要点は「仁智勇の徳は一(いつ)に誠の心に尽きる」とし、「民に臨
むには子に対する父母の心をもつべきである」と説き、「信ずる所
は、これを敢然と実践断行すべきものである」と述べられてありま
す。


 鷹山公は、藩政百年の大計を樹てるには、まず、文教を興こすに
あると考えられ、中断されていた藩学を再興し、この教育のあり方
は細井平洲に委ねることとされました。安永五年四月に学館が新築
され、ここに細井平洲を招いて、その教育の大本を定められること
になったのでした。


 藩をあげて歓迎申す中を、九月十二日、細井平洲は米沢に到着、
門東町にあった執政吉江輔長の邸内を宿所と定め、今の米沢市役所
裏手にあった興譲館に入られたのでした。


 この時に示された「建学大意」は、学館設立の目的精神を述べた
もので、その内容は君相三ヵ条、師長二ヵ条、生員一ヵ条からな
り、平易簡明な和文で書かれてあります。洪文体を故意に避けたと
ころにも、細井平洲の人柄が偲ばれます。この「建学大意」の要旨
を述べてみますと、「君相三ヵ条」は、藩の政治のあり方、藩学教
育の大本、興譲館の主旨が述べられてあります。


 一、国に秩序があり、国民が豊かで安らかになる政治は、仁義の
徳の実践によります。利口ぶった才智を用いれば治まりません。日
月ほ永遠に天地を照らして、それを手柄にはしないように、仁の徳
があって、謙虚にへりくだる心をもつ人を君子と称します。君子が
上に居て治めれば、世の中は乱れません。徳の中で謙譲ほど美しい
ものはありません。美徳は仁者の行いです


 この学館を「興譲」と名づけたのは、この美徳を修めて、悪徳を
除こうとするためです。


 一、「興譲」とは、譲を興(おこ)すと訓(よ)み、譲を興すとほ謙
遜の心をもって相手を尊重する道を修業させることです。この学館
では、古来の聖人君子の遺徳を学び、高ぶらない謙譲の美徳を身に
つけさせ、どんな地位についても恥かしくない人を作るのを目的と
しています。


 一、水や米は藩主であり、薪は士農工商であり、役人は鍋釜で
す。米は上白疑いなく、薪はよく燃えても、鍋釜が割れていては、
どうして飯が炊けましょうか。このように大切な鍋釜を、この学館
というふいごで、立派に、しかも沢山作り出すべきです。この重要
な学館には、藩の上役も度々来て、師を敬い、学問を尊び生徒を励
すべきです。

 とあります。


 次の「師長二ヵ条」は、教師の心得と教育法について述べられて
あり、

 一、教師の任務は人に信じられることにあります。信じられるの
は、己を保つことの堅固さによります。この堅固さとは、長く同じ
ことを退屈せずに行い、人の信、不信を問わず勧め行うことです。

 怠らず長く行えば、人の信頼が生まれるものです。教師の道は、
自己の行為を断えず反省し、生徒の個性に即して心を尽し生徒の成
果を自分の責任とし、学館の父母となり、美徳を習慣づけ、寝食の
間も油断をしないところに極意があります。


 教育法の詳細は「学記」に従いなさい。

 一、生徒は、何れも将来指導層につく人なので、その将来を思
い、各人にその心持を覚悟させ先々役に立つように備えてやること
を第一の目的とすべきです。


 と述べ、次の「生員一ヵ条」は、生徒の心得を説いたもので、勉
学を本務とし将来に役立つことを今日の仕事とすべきで、先生の教
えに従うこと以外の道はないと述べています。

 この「建学大意」の原文は、今の世に考えるべき珠玉のような含
蓄のある言葉で綴られてあります。


 また、細井平洲ほ、「学則」として、「管子」にある「弟子職
(ていししょく)」の一文を揮毫して示しました。この「学則」の篇
額は、今もまだ興譲館高等学校に伝えられています。

米沢の歴史を見える化

 米沢藩学の教育精神は、稀に見る偉大な教育者細井平洲の心を軸
として発展し、その真髄は、細井平洲の示した「建学大意」や「学
則」によって覗い知ることができ、「人づくり」のあり方として、
今の世に多くの示唆を残しているのです。