よねざわ歴史・文化いろはの 『た』
 ダラス先生、広めてくれた米沢牛


 明治4年(1871)1月興譲館内に、洋学舎が創設され、英語教師三
名を東京から招いた。
・2月18日知藩事上杉茂憲臨席のもと開校式。
・13歳以上で志が高く才能の優れた者75人が選ばれ、学費を与え
て学ばせた。


 その教師のひとり、チャールズ・ヘンリー・ダラスはロンドン生
れの英国人で30歳。英語とフランス語のほか、数学、経済学、地理
なども教えた。教科書はすべて英語で、教えるほうも習うほうも、
非常なる努力が必要だったと思われる。


米沢の歴史を見える化

 そのときダラス先生が、横浜の居留地からコックとして連れてき
たのが置賜生まれの万吉。そのころはまだ洋食は一般的でなかった
から、専属コックとして連れてきたのです。


 ダラスは明治8年に米沢を去る。去るに当たって、自分のコック
万吉に、家具・資金を与えて牛肉屋を開かせた。『牛万』といい、
米沢で牛肉屋の元祖(現存せず)となった。明治13年の米沢新聞に
「牛万」の広告が見られます.


 去るにあたり牛を一頭連れて帰り、東京で英人仲間に振舞い、高
い評価を得られた。その後横浜に移り、添川村(現飯豊町)の佐藤吉
之助を紹介し、横浜の牛肉問屋と特約させ、米沢牛として売出し東
京・横浜で大評判となり『名産米沢牛』の名が世に出るようになっ
た。


以下参考


<ダラスの業績>


 三十歳のとき米沢に来たダラスは、礼儀正しい典型的な英国紳士
で、生徒達からも地元住民からも親しまれ敬愛の的となった。石井
研堂は『明治事物紀原』「国際部 チャールス・ヘンリー・ダラス
小伝」のなかで次のように書いている。


 氏、資性廉潔、よく学生を愛し、礼儀作法を重んじ、人と対話し
もしくは他人を訪問するときは、必ず服装を正し、又人と対座する
とき、かつてあくびせしことなし。あくびは、屁と同様との信念よ
りの慎みなり。また米沢人を訪問するときは、日本風の紋付羽織を
着することしばしばなり。


 ダラスは、英文法、英会話など語学関係は勿論、幾何・代数・経
済・地理・歴史と多方面にわたり教授するかたわら、クリケット・
高跳び・器械体操といった近代スポーツの紹介指導にも当たってい
る。


 ダラスの業績としては、英語の発音に関する入門書『英音論』
(洋学舎教師 吉尾和一が訳述、明治五年六月、東京神田の尚古堂
より刊行している)と『日本アジア協会会報』に発表した「街道案
内付 置賜県収録」(当時の奥州街道沿いの宿場町や都市の現状お
よび米沢を中心とした元上杉藩領の地理や産業・教育についてまと
めたもの)と「米沢方言」二論文がある。


 『英音論』は、邦音を巧みに利用して日本の学生に分かりやすく
解説した発音の入門書で、豊田實『日本英学史の研究』改訂版では
「内容の大部分は母音子音とつづりと簡単な説明で、邦音との比較
がすこぶる懇切」と称賛している。


<米沢方言>


 明治八年、『日本アジア協会々報』に米沢方言を紹介しました。
これは、日本で明治時代に方言研究を発表した最初のものとして有
名です。


 この論文の中で当時の米沢方言の特徴がよく述べられています。
例えば、発音では、エとヱを区別して発音することや、士族はハを
ファと発音することなどがあり、ことばでは、コワイは疲れる意味
に用い、デルは出るより出来上がる意味に用いるとか、自分のこと
をオレと言い、複数はオラダで、これを士族はオレラと言うとか。


 また珍しいことばとして、スソボソ・タチツケ・ジンベイ・フカ
グツ・カンジキ・タケボホラ・スナハキ・モゴサイ・アバゲル・カ
ダデ・チクト・ペロットなど沢山の語をあげ、また、挨拶語ではハ
イということをウンナイと言い、サゾをナンポカと言うなどと興味
あることが述べてあります。


 米沢城は明治六年に取り壊されましたが、明治五年に英人バビー
ル兄弟の撮影した写真が一枚米沢に残っていて、これが、昔の米沢
城の姿を偲ぶただ一枚の写真となっています。これもダラスと関係
があるものと思います。


米沢の歴史を見える化

 洋学舎は、その後も数人の外国人教師を招き、明治11年まで続き
ました。この中でも、チヤールス・ヘンリー・ダラスの残した足跡
は実に大きく、米沢では忘れられない人となっています。


米沢の歴史を見える化