追記:2011-12-28 山新記事、「かてもの」をたずねる 


 鷹山は凶作による食料不安に備えて、第一の対策として米を蓄え
る「備籾蔵」を、第二の対策として、米以外の食糧確保が図られた。
莅戸善政が中心となり、小冊子「かてもの」が印刷されて、領内に

配布された。


 「かてもの」は、漢字で書けば「糧物」である。『かてもの』に
は、野山などで入手できる野草など82種の名称と調理法のほか、味
噌・醤油の作り方や保存食のこと、魚鳥獣肉の貯蔵法について記さ
れていた(添付表)。これだけの品目を挙げるために、さまざまな
野草を薬草として研究している本草学(薬学)の力が動員された。


米沢の歴史を見える化

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 『かてもの』のしめくくりには「右は今の豊なる日に能々心得さ
せよとの御事に候条油断すべからざるもの也 享和二年(1802)三月
中条(医者) 莅戸」と記されている。

 食糧難におちい陥って苦しいときにこの冊子を開くのではなく、
今日の食糧の豊かなときに開いて学ぶように、という指示である。

 困ってから騒ぐのは「油断」であって、日ごろから学んでおけ
ば、困らないということだ。


 ちなみに、この『かてもの』は、1833(天保四)年の大飢饉(天保
の大飢饉)でその威力を発揮したほか、太平洋戦争時の食糧難のと
きにも大いに役に立った、ということである。
・・・「上杉鷹山の訓え」遠藤英著より



 米沢市指定文化財 かてもの版木 二八枚


 江戸時代(享和二年1802)三月
14.0cm×26.0cm 米沢市上杉博物館


米沢の歴史を見える化

 「かてもの」は飢饉のとき飢えをしのぐ食物である。
 天明三年(1783)の大飢饉に際し、鷹山が編纂を命じたもので、荏
戸善政が寛政一二年(1800)に側医矢尾板栄雪等にはかり飢饉救済の
手引きとして享和二年に領民に配ったものである。刊行冊数1575
冊。

 飢饉に備え穀物の貯蓄と共に、それをより長く食べられるように
する目的で「かて」とする草木果実などの救荒食物を約80種を選
び、その調理法を具体的に述べている。

 また味噌の製造法や魚鳥獣肉の貯蔵法まで記しており、天保四年
(1833)の飢饉には大いに役立ったと伝えられる。



 あるもの有効利用、スローライフで自給自足も考えながら、TPPも

真剣に考えよう。


追記

 山形新聞の記事
米沢の歴史を見える化

 「かてもの」をたずねる 高垣順子著

 自分はちょっと高くて手が出ませんが、米沢の本屋さんにはありますよ。


米沢の歴史を見える化