また機動艦隊の司令長官に南雲忠一中将が選ばれたのも、彼が駆逐艦戦の大家だったからに他なりません。このことが後の戦いに裏目に出るとは、、、、しかし”今は行けばどうにでもなる、行くまでが勝負だ”、、、、、


ここからはハワイ時間で書きます。

7日午前4時半、この時間までに日米交渉が妥結すれば攻撃は中止、引き返すのです。パールハーバーの北370㎞に達した機動部隊は、歴史的瞬間をあと二時間ほどで迎えることになります。


三時間半前、午前一時、東京の外務省はワシントンの野村、来栖、両大使宛に極秘の電報を発進し始めます。無論暗号で、、、朝の七時半きっかりにこの最後通牒文書を国務省に届けろ、と言う命令です。対米覚書、最後通牒、いわゆる宣戦布告の電報です。

米国防総省(ペンタゴン)でもこの電報を傍受していました。前から日本の暗号を解読していたペンタゴンは、マジックという名の日本暗号の自動解読機まで作っていました。つまり暗号電報が受信されると、自動的に解読されてプリントアウトされるのです。


文章を読んでみるとストレートに宣戦布告の文字はありませんが、国交を断絶する事が書いてあり、しきりと午前七時半きっかりにアメリカ国務省に、届けるように指令しています。それに暗号機械の破壊処分まで厳命しています。

この時代最後通牒、国交断絶は戦争と同義語です。それを朝の7時30分まで、ではありません。7時30分きっかりに届けろと書いてあるのです。これが何を意味するかは明白です。軍人ならこの時間の直後に攻撃があると考えるのが普通のはずです。即座にルーズベルト大統領やハル国務長官に報告され、ハワイ、アジア地域の全アメリカ軍に対して即座に警戒警報が発せられました。


朝の7時をチョット回った時間でした。空襲まで一時間を切ったところです。日本の大使からは、7時半の会見を1時間遅らせてくれ、と言う要請があった直後です。しかしこの警戒警報、8時にはハワイに届きませんでした。ペンタゴンや国務省の緊急電報(ホットライン)を使わず、民間局の商用電報を使用したため、何カ所も中継され午後になってハワイに到着したのです。


何故そんなことをしたかは不明ですが、この事が米首脳はハワイ空襲が有ることを知っていながら、日本にだまし討ちの汚名を着せるため、あえて太平洋艦隊に知らせなかった、と言われ続ける所以なのです。
(注アメリカでは電信電話郵便は民間の業務なのです)



戦艦物語 ~鉄と血の世紀~

攻撃隊発進     1941年12月7日 早朝6時(未明)
空母加賀と雷撃隊出動 魚雷が重いため甲板の先端まで滑走しても浮き上がらず、海面に落ち込むように下がってから浮き上がる


攻撃隊発進、頭上には艦隊上空直援(護衛)のゼロ戦が鷹のように油断無く見守っています。その数30機ほど。赤城から最初の一機、ゼロ戦が飛び立ちます、加賀、瑞鶴、翔鶴、蒼龍、飛龍 次々とゼロ戦が発進します。戦闘機が発進し終わると、すかさず爆弾を抱えた九九艦爆(九九式艦上爆撃機)その後に、一番重い魚雷を抱えた、九七艦攻(九七式艦上攻撃機)が飛び立ちます。重たいので甲板を離れた瞬間、海面に向けて沈み込み一瞬 見慣れていない人なら発艦失敗 海面に激突かと勘違いするでしょう。


事実記録映画ではこのシーンで映画館内から必ず悲鳴が上がったのです。それだけ魚雷は重たかったのです。
発艦の時は攻撃隊全部を、滑走距離の長い巡に後ろの方から甲板上に列べて置き、さらに艦を風上に向かわせ、全速力で航走させます。合成風速を十分に利用しながら、最前列にいる滑走距離の短い戦闘機から発艦を開始するのです。


一番後ろの、重い魚雷を抱いた艦攻機は多少なりとも滑走距離を長く取れるのですが、それでも命がけ、未熟な者は訓練中に海に落ちてしまい命を落とす者も多かったのです。


全機発艦が終われば上空で編隊を組み、攻撃地へ向け、進撃です。この編隊を組むと言うのが防御上のポイントで、これで敵戦闘機もうかつには手が出せなくなるのです。


編隊を組んでいなければ一機ずつやられてしまいますが、編隊を組んでいれば攻撃機の全ての機銃が襲い来る敵戦闘機に向けられます。さすがの敵戦闘機も、四方から十字砲火(じゆうじほうか)を浴びることになり、じっくりと獲物が狙えなくなるのです。また上空からの水平爆撃の場合、十数機、二十機と言った編隊を組んでいれば、編隊の中心に目標を捉え、全機で一斉に爆弾を落とせばどれかが命中と言うことになります。必ず命中させるためには編隊を組む事が必須条件になるのです。
(注 十字砲火 正面だけでなく側面からも同時に銃撃する状態)

 

    戦艦物語 ~鉄と血の世紀~

        母艦上空で編隊を組む九七式艦上攻撃機、旭日を浴びながら


こうして編隊を組み終わった攻撃隊は一路攻撃地、オアフ島パールハーバーを目指します。進撃開始と同時にラジオを付けます。アナログ時代のラジオですからダイヤルを回しハワイ放送(オアフ放送局)の電波を捕まえます。


常にラジオの電波状態が最良になるように、飛んでゆけば自動的に最短距離でハワイにつくのです。もっともラジオが有ろうが無かろうが一騎当千(いつきとうせん)の当時の日本の搭乗員、道に迷う(コースを間違える)なんて事はあり得ないのですが、、

(注 一騎当千(いつきとうせん) 相手よりも遥かに優れた技量や力を持ち、一人で数多くの敵をやっつける事)


これにはわけが有りました


始めのうちはノイズ混じりの放送も次第に鮮明に聞こえるようになり、早朝の音楽番組が始ったようです。ハワイアンが軽やかに聞こえ、ビングクロスビーの珊瑚礁の彼方(ビヨンドザリーフ)や女性歌手のタフアフアイ(ハワイの民謡)等が次々と、彼等は当時日本でもその人気は相当なもので、日本の攻撃隊員にもおなじみの曲ばかりです。これから始るであろう修羅場などは微塵も感じさせずに、、、


リクエスト番組ですからリスナーからのリクエストです。ジョッキー(MC)の爽やかな曲目紹介、と共に、ジャズやハワイアンに混じって日本の歌も何曲か混じります。故郷、椰子の実、ハワイは日系移民がもの凄く多いのです。何曲目かに

めんこい仔馬がかかります。


日本のスパイがハワイは普段と変わらず、平穏そのものと教えているのです。警戒警報が出たりすれば別の曲になるはずでした、、、



アメリカの事情
この頃アメリカ側は、10日ほど前(11月下旬頃)に取り付けたレーダーを使い索敵警戒行動を取っていました。ダイアモンドヘッドの突端に当時としては巨大な10m四方程のアンテナを設置し、陸軍の通信部隊が運用していたのです。下士官一名と兵卒一名の二名で運用していましたが、初期のレーダー、まだまだ画面情報は判別が難しく、おまけにレーダー初体験、取り扱いも全く慣れていなかったのです。

この日はサンフランシスコから8機ほどのB17爆撃機がハワイに来ることになっていました。


突然レーダー画面に無数の輝点が映し出されます。兵卒が横で居眠りしている下士官を揺り動かし”この無数の点はなんでしょう”と訪ねます。
今日は日曜日、途中抜け出したとは言え、昨夜のどんちゃん騒ぎパーティのシャンパンで二日酔い、寝ぼけ眼で画面をチラリと見やり”シスコ(サンフランシスコ)からのB17だろ”と言ってまた居眠りを始めます。


10分程画面を見やっていた兵卒は、なんだか変だと思います。B17は昼前に来るはずなのです。グースカいびきを掻いている上官を起こすのも悪いので、電話で中隊本部を呼び出し確認を取ることにしました。


間が抜けた話ですが電話は此処にはまだ引いてありません、明日月曜には引かれる予定なのですが、、、ダイアモンドヘッドの麓(ふもと)の雑貨屋(コンビニ7-11)で借りるのです。往復小一時間、大急ぎで山を駆け下り、コンビニの受話器を持ち上げたところで、頭の上に超低空で突進してくる攻撃隊の爆音が聞こえ始めたのでした、、、、


戦艦物語 ~鉄と血の世紀~

遅かった確認電話、コンビニにて


此処までは日本はウンが付いていたのです。もしレーダーサイトの兵士達が気合いを入れて見張って入れば、攻撃隊はハワイ到着前に、アメリカの防空戦闘機と格闘を演じなければならなかったはずなのです。


もっともこの時点でゼロ戦に太刀打ちできる戦闘機など世界中どこにもありません。スピットファイアーだって一目見て逃げ出したほどのゼロ戦、バッファローやトマフォークじゃ、鴨葱(かもねぎ)、になるだけのこと、失望の上塗りになっただけだとは思いますが、、、


日米交渉の雲行きが怪しくなってからは、”ハワイが狙われる”と、アメリカの政府高官や上級軍人達は、皆考えていました。ですから彼等自身も未体験のレーダーをいち早く実戦配備し、日本の侵攻に備えたのです。しかし殆どの軍人兵士達は、

”なんでこんな面倒臭い物を”と思っていたのです。

”メリーランドもウエストバージニアも居るじゃねーか”、、彼等は大艦巨砲主義のかたまりだったのです。
(注 スピットファイアー、バッファロー、トマフォーク 当時最新鋭と言われていた連合国側  

の戦闘機 開戦後ゼロ戦にばたばたと打ち落とされた。スピットファイアーは英国、他はアメ   

リカ)
  

(注 鴨葱(かもねぎ) ただ負けるだけでなく、敵になんの被害も与えられず軽く負けてしまうようなこと)
  

(注 メリーランド、ウエストバージニア アメリカの主力戦艦)

もっとも日本のスパイ達も、ちょっと見上げれば大概どこからでも見えるのに、この新設レーダーアンテナには全く気が付かず、大本営にはなんの報告もありませんでした。
多分 雀かツグミの霞網(かすみあみ)のでかいの、ぐらいに思っていたのでしょう、、、


ハル国務長官もペンタゴンもそして太平洋艦隊のキンメル長官も、さらにルーズベルトでさへ、日本が攻撃してくる日はあらゆる状況証拠から見て、11月30日(日本時間12月1日)と確信していました。なぜなら日本の外交暗号は、後述しますが既に解読されていたのです。


この日はハワイの全軍、全警察がピリピリと緊張の連続で過ごしたのです。それでも東京や佐世保のスパイからは”街は水兵達で賑わっている、空母も戦艦もそれぞれの母港に入港中”

という報告がここ一ヶ月ほど、の間に幾度となく届いています


一本だけ怪しげな文章の電報、新高山昇れが有りましたが、

”どこの国でもやっている、フェイント、気にすることはねーよ”、、、何事もなく一日が過ぎ去ってしまえば後に残ったのは、安堵と

”俺達に向かってこれる訳ねーよ”という慢心でした。

アメリカ人は自分たちの自由と正義、に基づく力、強さに絶対的信頼を置いていたのでした、、、、次章へ、、