(その3)

 

11.社内選考と私生活の話

 

①社内選考と2年待ち

 私が入学したのが87年4月であるが、実は85年にも社内選考を経て合格した。しかし、当時もう一人の受験者も合格したので、「年長者を先に派遣する」という方針により、2年待たされた。

 社内選考を受けた理由は、「仕事をしなくて給料がもらえる」という下賤な動機からであって、決して専門分野を極めようなどと思ったわけではない。

 一方、私生活では85年12月に次男が生まれ、86年にはそれまで住んでいた県営住宅から、マンションを購入して引越ししたばかりであった。「もういいです。勘弁してください」と断り続けていたのだが、「どうしても受けろ」という教育課長の指示に逆らえず受験したのであった。

 

②借上げ社宅と苦しい生活

 福岡からの引っ越し先は、新横浜駅の裏口から徒歩で10分ぐらいの、50㎡ちょっとのマンション7Fの一室。壁の塗装がボロボロ剥げるほどの、喫緊の改装を要する借上げ社宅であった。

 特に1年次の1学期、前述の通りの厳しい環境の中、家に帰ると年子の子供がうるさくて勉強できない。したがって平日はできる限り図書館で過ごしたり、早めに寝て、静かな夜中に起き出して予習を行った。

 しかし、休日は図書館が休みなので、カミさんに頼んで、子供らを連れ出してもらった。また子供らがいつもTVで見ていた、当時放送が始まったばかりの「アンパンマン」の歌が耳について離れない時もあった。

 

(借上げ社宅の入口にて)

 

 休日は、同じマンションの方々がマイカーで家族サービスに出かける中、ウチにはその時間もお金もなかった。仕事をしてないので、職務手当がカットになったうえ、九州と関東の給与水準の格差により、生活は非常に苦しかった。

 

 厳しい環境は、初めて九州を離れたカミさんにとっても同様で、博多弁が通じにくいなか、「横浜そごう」屋上の無料の遊び場で子供を遊ばせて、時間をつぶすのが日課であったという。 ついには「ホームシック」になってしまった。ちょうど夏休み入る頃、会社持ちで実家への帰省が許されたのは本当に助かった。

 

(当時の横浜そごう屋上)

 

 また、「横浜そごう」からの帰りの地下鉄で、同じマンション1階に住む「小島さん」親子と一緒になり、子供らも含めて友達になれたことも幸いした。

 一方、休日には「外で遊んで来い」と子供らに言って外に出すと、わんぱく坊主の次男が遊具や階段から転落して頭を割ること一度ならず、救急車に乗ったのも初めてであった。

 

 2年次になって、カミさんにも心の余裕ができたのか、子連れで東京ディズニーランドや、浅草、高尾山にも行くようになり、小島さんと一緒に横浜暮らしを楽しめるようになったようである。

 

③新横浜駅界隈

 今でこそ、横浜アリーナを始めビルが林立し、全ての「のぞみ号」が停車する新横浜駅であるが、当時は横浜駅と結ぶ市営地下鉄が完成したばかり、まだまだ空き地も多かった。それでも自分が学生時代の頃よりは相当都市化し、「ひかり号」も1時間に1本ではあるが、停車するようになっていた。

 

 横浜線も以前の茶色の旧型電車や、緑と青の混ざった電車は姿を消し、山手色の103系か、205系が走る通勤路線へと進化していた。しかし、駅裏は道も狭くまだまだ畑が残る地域で、表口とは無縁の古い住宅地であった。

 

(当時の新横浜駅裏口)

 

 通学は、新横浜駅から乗車し、次の菊名駅で東急東横線に乗り換えて日吉に向かった。たまに東京で飲んで帰るとき、接続する横浜線の電車がない時は、菊名駅から歩いて帰った。

 途中、丘の上に「篠原八幡神社」があった。88年11月、長男の七五三のお祝いは、その「篠原八幡神社」でお祓いを受けた。福岡に帰った後、あるドラマ(逃げ恥)を見ていると、見たことある神社が放映された。「あっつ!篠原八幡神社やん!」

 

(七五三、篠原八幡神社にて)

 

④東京出張所とバブル時代

 当時、東京京橋に「岩田屋東京出張所」があって、家族同伴で出張所の忘年会に招かれた。1年目は、今まで足を踏み入れたことのない「ホテルニューオータニ」にて、2年目は出張所の応接室にて、たまたま来られていた中牟田栄三社長とご一緒にした。

 岩田屋の情報が聞ける貴重な機会であった。

 

(社長を囲んでの忘年会の一コマ)

 

 一方、折からのバブル時代、自宅マンション前の畑を挟んだ先に、25坪ほどの土地に建売住宅が建設された。価格を見てびっくり!なんと1.2億であった。手取り20万少々の私にはため息すら出なかった。

 

⑤卒業の時

 卒業の年の正月、もう二度と来る機会はないだろうということで、水道道を走る市営バスに乗って、生麦あたりで「箱根駅伝」を生で見た。中学時代自分も陸上部にいたのだが、鶴見中継所のすぐ手前、20㎞を走ってきたランナーの息遣いは荒かった。

 そして、数日後の1月7日、昭和天皇が崩御され、「平成」へと改元された。

 

 卒業直前、家族への感謝と苦難の現場をしのぶため、特急踊り子号で「下田東急ホテル」泊の家族旅行を行った。その後伊豆半島をレンタカーで回り、修善寺で伊豆箱根鉄道に乗り継いて横浜に帰った。まともな家族サービスは後にも先にもこの時だけであった。

 

(185系特急踊り子号)

 

 福岡に戻るとき、マンション1Fの小島さんが新横浜駅まで送ってくれた。その時、手を振ってくれた小島さんの目には涙があふれていた。カミさんは今も年賀状のやり取りをしているようである。

 後で聞いたが、小島さんは旦那さんが勤務する大手企業に転職しないかと、誘ってくれてたそうだ。もしも受けていたら自分の人生は大きく変わっていただろうと思う。

 横浜駅を旅立つときは、最後の「学割」を使って、寝台特急に乗って、家族4人福岡の元のマンションへ戻ってきた。一時期部屋を貸したため、住宅取得控除が受けられなくなってしまった。

 

12.卒業後と感想

 

派遣元の会社(岩田屋)のその後

 私が岩田屋に戻った89年、中牟田栄三社長に代わり、創業者中牟田喜兵衛氏の孫にあたる中牟田健一氏が新社長に就任された。社長方針なのか私の時までは2年おきの派遣が、その年から毎年派遣になり、さらに1年で2人派遣となった。

 

 私は元の経営計画室に戻り、KBSで習ったマネジメントコントロール(計画―管理―評価の仕組み)に沿って、管理会計制度を設計して運用を始めたが、なぜかうまくいかない。もちろん自分の力不足もあるが、もとより経営陣には、従来の仕組みも一緒に改変しなければならないという発想を持ててなかったようだ。

 

 3年後経営計画を離れ、2年間の売場係長生活を経て子会社サニーに出向。その時始まった第1次希望退職募集に応募し、94年8月会社を去った。すなわち「KBS派遣者は卒業後5年間退職してはならない」という内規はしっかり守った。

 その後、建材ベンチャーを経て、95年2月ユニクロ(ファーストリテリング)に転じた。

 

 一方岩田屋は、96年8月、私が経営計画室時代に大反対した新店舗「Zサイド」をオープン、「買取自主販売」も本格的にスタートさせた。

 

 結果、99年2月決算において300億を超える債務超過を計上し、資産売却など対策を講じたものの02年には破たん。大手百貨店伊勢丹(後の三越伊勢丹ホールディングス)の傘下に入った。

 詳しくは「会社はなぜつぶれるのか?(岩田屋)」をご覧いただければ幸いである。

 

その他

 卒業後、伏見ゼミナールのOB会「伏見会」が東京で開催され、私も何度か足を運んだ。

 先生は94年KBSを退官され、東京理科大へ移られた。その8年後先生は退任。そして06年78歳にてご逝去された。「しのぶ会」には伏見会メンバーの他、KBS及び東京理科大歴代の講師陣、現役の先生方も数多く参列され、先生の業績とお人柄をしのんだ。

 

 一方、当時人事労務の講師であった石田先生が、KBSを退官後、02年福岡の中村学園大学の教授に転じられた。一度であったが、先生のお招きで授業の中で「ユニクロ」の話をさせていただいた。石田先生はその後本を出版され、その本に自らのゼミ生ではない私のエピソードも書いていただいた。

 

 「塾樹会」と称するM10の交流は現在も継続しており、毎年の忘年会の他、編集長Y氏の努力により、年2回近況報告を掲載した会報を出している。30数年を経過し、ぼつぼつ引退の報も聞くようになったが、厳しい修羅場を一緒に駆け抜けた戦友は、何年たっても忘れられない。

 以上、総合的に考えた結果、やはりKBSに行ってよかったと思う。

 

 最後に、このKBSの2年間で最も辛かったのは、実はカミさんではないだろうか。旦那の援助もない中、全く知らない土地で、1歳2歳の年子を含めた家族の世話を続けたカミさんに対し、深く敬意を表して、筆を置くこととしよう。

ありがとうございました。

 

追伸)

同級生のうち、入学合宿時同室だったW氏、日本生命のI氏、山口で会社を経営されていたS氏他、鬼籍に入られた講師の皆様に対し“ありがとうございました”の言葉を添えて、合掌!

 

(完)

 

※参考(参照)~ KBSホームページ、M10卒業アルバム