みなさんこんばんは!著者のyoneyoneohです。前回昔の写真を見つけて、過去の廃線乗り鉄を思い出したことから、自分が高校時代利用していて、2007年に廃線になった「西鉄宮地岳線」のことを書こうと思い立ちました。実はこの線、今では考えられないほど”面白い電車”でした。おかげでメチャメチャ目が悪くなりました。それでは”宮地岳線想い出行”出発です!

 

1.最終日の乗り鉄
 2007年(平成19年)3月31日、リサイクルショップを始めたばかりの忙しい頃にもかかわらず、昔よく乗った西鉄宮地岳線が一部廃止になると聞き、最終列車近くに最後の乗り鉄にやってきた。そのとき、数多く写真を撮ったのではあるが、その後パソコンが盗難にあってなくなってしまった。


 当時の宮地岳線は、福岡市東区箱崎から、福岡県宗像郡津屋崎町(現在の福津市津屋崎)を結ぶ、営業距離21.0kmの単線の電車であった。貝塚駅にて福岡市営地下鉄箱崎線に接続しており、現在も貝塚駅から途中の西鉄新宮駅まで、西鉄貝塚線として存続している。廃止区間は、西鉄新宮駅から先、古賀ゴルフ場前・西鉄古賀・花見・西鉄福間・宮地岳・津屋崎の6駅9.9kmであった。


 宮地岳線は、元は博多湾鉄道汽船(通称が湾鉄)が敷設した路線である。1924年(大正13年)5月に福岡市内の路面電車とつながる新博多駅(現在の千鳥橋)から和白駅までを開業。翌1925年7月和白―宮地岳間を開業した。1929年(昭和4年)福間駅と津屋崎間を運行していた津屋崎軌道を買収、新博多-宮地岳間全線を1500V電化した。

 1942年(昭和17年)に戦時体制で九州電気軌道(現:西日本鉄道)に合併され、西鉄宮地岳線となった。当時は、宮地岳駅から東郷を経て直方まで伸ばす計画があったと言われている。

 しかし夢はかなわず、その後津屋崎町の要望を受け入れて1951年(昭和26年)宮地岳駅を移設して、宮地岳―津屋崎間を開業した。

 

 1954年(昭和29年)に西鉄博多駅(元新博多)~西鉄多々良駅(現在の貝塚駅)を600Vに降圧、標準軌(1435㎜)に改軌して、西鉄福岡市内線に組み込んだ。貝塚駅右奥には、福岡市内線と宮地岳線の車庫が隣り合わせに存在した。

 廃止区間は、長く続く松林に囲まれた気持ちの良いローカル線であった。平日朝夕のラッシュ時を除き単行列車であり、貝塚-津屋崎間を約13分間隔で40分強かけて運行した。平日朝夕のラッシュ時は、途中駅の香椎花園前駅折り返しの列車があった。
 またその車両は大正末期から昭和初期製造の、あちこちから集めた中古電車が配属される一方、車輌の更新修繕もバラバラ、次にどんな電車がやってくるのか楽しませてくれた。エアコンなどという洒落たもの一切は無く、天気の良い時は全開の窓からは涼しい潮風が吹き込んで来た。

2.高校時代の通学路線
 さて、この宮地岳線、私が小学生の頃、父と博多に遊びに行った帰り、鹿児島線上り電車から、香椎駅に着く直前に左側に並行して走る古い電車を見つけたことにはじまる。「お父さんこれ何の電車は?」と聞いたことを覚えているが、なんとその数年後、自らが通学に利用することになるとは、夢にも思わなかった。


 1973年(昭和48年)3月、私が中学卒業と同時に、父のたっての希望で北九州市八幡西区の社宅アパートから宗像郡津屋崎町宮司の戸建てへ引っ越した。八幡の生まれ育ちの父親にとっては、「空気のきれいなところに住みたい」という希望がかなえられた反面、私は福岡市内の高校まで1時間以上の遠距離通学を余儀なくされることになった。

 宮地岳駅まで徒歩10分、通常授業(8:40開始)の時で、宮地岳駅発の7時16分又は29分の電車に乗らないと間に合わない。朝補修(7:40開始)の時は6時29分の電車に揺られて通学した。


 季節のいい時だけ国鉄福間駅までチャリを飛ばして10分、チャリ置き場から2分でホームに立った。吉塚駅で降りて学校まで徒歩15分もかかるのであるが、通常は福間駅発7時51分、早出の時でも6時51分発の電車でよかった。その差はなんと約20分強。すなわち宮地岳線(+福岡市内線)はとにかく時間がかかった。

 しかし夏冬の宮地岳の坂はチャリには厳しく、結局宮地岳線が通学の主力であった。また当時の国鉄鹿児島線は、ラッシュ時は増結(12両編成)されるものの、昼間と同様ほぼ30分おき、今では考えられないぐらい本数が少なかった。

 しかし、1976年(昭和51年)の高校卒業後、のどかな電車は次々と廃車になった。またに帰省すると、そのたびに大牟田線からの新たな中古車両が投入され、高校時代とは全く印象の違う路線になった。また、1979年(昭和54年)貝塚駅で接続していた福岡市内線が廃止になって、完全な孤立路線になり、電車代行バスが走るようになった。


 1980年(昭和55年)Uターン就職で再び通勤に活用するようになったが、それも1年で終わる。帰宅時間が遅くなることが多く、免許をもつ社会人になると、あまりに時間がかかる宮地岳線は自然と敬遠され、国鉄通勤へと変わった。その後1983年に結婚、実家を出て福岡市西区に住むようになると、乗る回数はぐんと減った。

(その2へ続く)