女の恋愛観 蒼宵情話 

女の恋愛観 蒼宵情話 

恋愛は女の最強サプリ

宵越しの恋愛は夜明けの蒼い時間に忘れたほうがよい。極彩色の現実にもどるまえに。

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あなたとの最後の夜を、「これで最後」と思いながら過ごす勇気が、私にはない。


「もうコレッキリ」と答えが出ている夜を、どう抱きしめたらいいかわからない。


もう、戻るところがあるあなたを、「あなた」に還すタイムリミットがきた。


私が望めば最後の明日は、あなたに逢える。


それでも、「また来週逢えるね」と無邪気に思っていた「この前」を、今、最後に置き換えよう。


これが最後と思いながら過ごす夜の痛みよりも、あれが最後だったなと思い返す取り戻せないせつなさのほうが、きっと私には優しいだろう。


ただ、逢えただろう明日が過ぎさるまで、そっと身をひそめ息を止めて待つだけ。

あの日、あなたのイニシアティブで私はコントロールされた。

次は、私のたくらみであなたは罠に嵌められる。

どちらにしても、私の自尊心と虚栄心は満たされなくてはいけない。


虚飾の言葉でかまわない、いっそその方が納得できる。

美辞麗句を吐いて、私の中の女をもう一度めざめさせて。

そのために、あなたは私に出会ったのだから。


雪の中に咲く椿のように、「朱」は「白」があってこそ、よりいっそう映える。

「朱」は、存在理由を探し求めるために、「白」を必要とする。

たとえ首を切り落とされ、落ち椿となっても、八重の花びらは雪の上で赤く咲きほこるだろう。

また、椿をいだいた雪は、より透明感を増す。


そして、私が真紅に染まることで、あなたは螺鈿のように輝くだろう。


歯車は狂いだした。

決して引くはずがないと思っていたカードを手にしてしまった。

偶然に風が心地よかったあの日、必然に私の手からこぼれ落ちたものが、季節を一巡したにもかかわらず、形も変えずに私の前に現れた。

そのささやかなきっかけを持って、私の「封印した女」を呼び戻しに。

あなたは静かに言う、僕の中に同じ感性を見つけただろうと。

私は性急に言う、あなたの中に私と違う性を見つけたと。

ふたりで揺るがない事実を共有することで、私たちは違うことを感じた。

あなたは、慣れ親しんだ肌から離れてひと時の温かさを。

そして私は、忘れかけた私の中の女を。


それは、あの日の甘いリベンジを果たしたふたりへのご褒美として、いや、罪として与えられた錯覚。



だからこそ二人は犯罪者のように、そしらぬ振りをして離れて歩いていく。








それも朝の雑踏の中だからこそ。



背徳の罪という十字架を背負って、憐憫の想いを秘めて。






ほつれかけた恋愛に死という幕をおろすには、あなただったらどちらの方法を選ぶだろうか。


『私以外の女を抱くのなら、いっそあなたをあやめてしまいましょう。』

男の死で幕をおろす。

エゴイスティックな究極の性愛。


『あなたが私から去るのなら、私は消えてなくなりましょう。』

女の死で幕をおろす。

ナルシシスティックな究極の復讐。


阿部定の如く、愛する男を切り刻み骨の髄まで自分のモノにするか、

男の心に灼熱に燃える焼印を押し、重い十字架をその背にくくりつけるか。

どちらも愛憎のせめぎあいの結果である。 


ただその愛憎のコントラストに違いがある。

前者は男を殺してしまうほど屈折した“愛”が強く、後者は自分が死んでしまえるほど屈折した“憎”が強い。

同じく屈折した感情でも、世間的には失恋による自殺のほうが美談になりやすい。


だが私はドラキュラの如く、男の生き血を吸って女として生きていく方を迷わず選ぶ。

自殺した精神的な被害者ではなく、猟奇的な殺人犯となっても。

♀「あの時、あなたは私のことを大好きだって言ったじゃない!なのに…」

♀「仕事が上手くいったら結婚しようって言ってくれたのに、なんで…」

♀「嘘つき!」

♂「え~、オレ嘘つきなの???」

ホントにそれって 『嘘』 なの?



そもそも、『嘘』 とは、意図的に事実ではないことや人を騙す言葉のこと。

それも 、『今』 思ってもないことを言ったり、『今』 の真実でないことをごまかしたりすることだ。

この 『今』 というのがクセモノなのだ。

『今』 という概念はとても曖昧で、それは男女で大きく認識が違っている。

その違いによって、悲劇は引き起こされるのである。


女性にとって、ひとりの男との恋愛は何年たっていても、『今』なのだ。

要するに現在進行形の恋愛としてひとくくりになっているのである。

それは一本のリボンのように。

だから、5年前だろうが先月だろうが「愛している」と言われたら、今日もそれは進行中であって「愛している」と思われてて当然なのだ。

そこに、まさしく今この瞬間に「愛してない」と言われたら、何年前の言葉であっても、全てが「愛してない」に指し替えられてしまう。

つまり、数年前の「愛してる」は『嘘』だったということになる。


男性にとって、『今』 とは、もらった名刺を見てぼんやりと相手の顔を思い出せる程度の過去と、せいぜい手帳に予定が書き込まれているあたりの未来までだ。

要するに、感情や行動を思い出せる範囲のことであり、彼らの 『今』 はとても短い。

そんな彼らにとっては、数年前はとっくの昔に過去になってしまっている。

彼らのリボンは断片的につなぎ合わせられながら1本になっている。

今日、彼女に「愛してない」と言ったからといって、あの時愛していなかったわけではなく、「愛してた」という過去形なのだ。

リボンの最後の断片だけが色が違っていた。

つまり、心変わりをしただけのことで「嘘つき」ではないという。


どちらの言い分も間違ってはいないだろう。

ただ、時制の認識が一致しないだけだ。

これもまた、永遠に男と女の不一致といえる。

たかだか紙切れ一枚の有無・・・なんだろうか?


恋人同士であろうが、夫婦であろうが、男女の仲で「この人でいいのかなぁ」という思いが頭をかすめることはよくあることだ。

漠然と心の中で呪文のようにつぶやいているうちはいいが、一旦ことばとして表明してしまったら、別れの足音はひっそりと忍び寄ってくる。

別れとは、想いの深さや積み重ねた情念に比例して、つらくせつなく、そして哀しい。

そうであれば、恋人同士であっても、夫婦であっても違いはないはず。

しかし、この紙切れの有無は別れ方を二分することになる。


恋人同士も夫婦も、始まりは二人して同じ気持ちだった。

いや、同じ気持ちだからこそ、始まった。

深い愛情を感じながら恋人同士になっていくとは限らないが、少なくともお互いの同意のもとで始まる恋愛。

そして、人生を共に生きていこうと二人して決意を固めてる結婚。


別れも二人が同時にさめてくれれば、何の問題もないが、多くはどちらか片方が先にさめる。

恋人同士であれば、どちらかが別れたいと言い出したら、別れなければいけない。

想いが残っている者が置いてきぼりにされても別れは成立してしまう。

なぜなら、心は自由だから。

ただそれだけの理由で充分なのだ。


夫婦であれば、どちらかが別れたいと言っても、別れられない。

別れることでさえも、お互い同意しなくては別れられないのだ。

残される片方が同じく別れたいと思えないにしても、表面的に了解しなくては別れは成立しない。

なぜなら、心は自由だからこそ、契約という制約をつけたのだから。

心には足かせをはめられないから紙切れが必要なのだ。


いつも緊張感と隣あわせで恋人同士でいるか、あるいは、離れた気持ちをしのぎ夫婦でいるか。

どちらも一長一短の選択だ。

私にとって宗教とは、排他的で盲目的なものだ。


たしかに宗教で救われる人々はいるものの、過去から現在にかけて、宗教を基とする紛争は少なくはないからだ。

私は仏教系の高校に行き、キリスト教系の大学で学んだ。

にもかかわらず、私はどの神も信じてはいない。


唯一、私の心の中に宗教があるとすれば、それは愛している彼だ。

彼はまさしく万能であり、信じる私を救ってくれる。

それは他宗教の女、すなわち彼を愛せない女にはまったく万能ではないだろう。

しかし、私も他宗教の神、私にとって魅力のない男をあがめることはできない。

だから彼を愛せない者たちを一掃し、私たちは二人だけで楽園に住まう。

客観性など何も求めてはいない。

その愛はとても排他的で盲目的だ。


宗教とは、既存の神を信じることだけではない。

人の心の中で、何かあるいは誰かを信じることだ。

それは、親やパートナーでもよい、情熱を傾けたピアノや幼い頃に書いた絵でもよい。

自分の生き方の羅針盤であれば。


私の宗教が彼であるように、また彼の宗教が私であってくれれば、楽園は永遠に続いていく。

禁断の果実である林檎を食べてしまったアダムとイヴはエデンの園を追放された。

林檎を食べるまでは二人とも裸で暮らしていたが、林檎を食べてから羞恥心が芽生えたという。

その罰として神はイヴに出産をいう苦悩を、アダムに労働という責務を与えた。

つまり、林檎を食べてから二人は 『男と女』 になったのだ。


ここからは私の推測だが、二人はひとつの林檎を分けて食べたのだと思う。

なぜなら、ルール違反をする時には、罪悪感が伴うもの。

それを分かち合う共犯者として林檎は二つに割られた。

そして半分はアダムの中に、そして半分はイヴの中におさまっただろう。

だから、各々の胃に納まった半分の林檎がもうひとつの片割れを求めるように二人は愛し合ったのだ。


時は過ぎても、その林檎は現代に生きる私たちの恋愛に続いている。

そう、恋愛とは、自分の持っている林檎の片割れを探すこと。


私たちは、恋愛をする時、お互いの林檎を合わせてみている。

ひとつの林檎としてぴったり一致するかどうかと。

しかし世の中にはいろんな形や色の林檎があって、一致するなんて無理なことだ。

それなのに、「1mmでも大きさが違っていたらNG、色が違っていたらNGだ」と言っていたらずっとひとりでいるしかない。

だったら「1cmまでならOK、色の濃淡が多少違うくらいならOK」のほうが選択肢は広がる。

ちょっとずれた部分は削ったり、色が違えば陽に当てたりすればいいだけのこと。

そのプロセスもまた恋愛であって、自分にない価値観を知ることもできる。

その結果、二人で作りあげた新しい林檎が生まれる。


アダムとイヴの胃の中で消化された林檎は、今となってはそうそう簡単に一致するものではないはずだから。



いつもきっちりと閉められている扉のドアノブに手をかけるのには勇気がいる。

また、いつも扉が開け放されている部屋は、見慣れてしまい興味がなくなる。

だったら、風が通るくらいに開かれた扉から、部屋の隅しか見えなかったらどうだろう。

もっと中が見たくなるものだ。

そこに趣味のよい靴が見えれば、当然どんな人が履いているのか想像し、その姿を見たくなる。

また、その部屋の奥に置かれている家具までも見たくなる。


家や建物に扉があるように、人にもやはり扉がある。

そして人はこの扉を、人や場面によって自由に開け閉めしている。


では、恋愛の場面での扉とは。

とても容姿が美しい女であれば、閉めきった扉でさえ男はエネルギーを使ってでもノックをしてくるだろう。

しかし並の女であれば見過ごされてしまう。

また、ウェルカムとばかりに全開にしてしまうと、男が見たいと思うものはもう既に見えていたということに。

そう、恋愛の糸口をたぐり寄せる女の扉は、ゆらゆらとかすかな隙間で開いているものだ。

人は入れないが、猫が入れるくらいの隙間。

ビミョウな好奇心を掻きたてられる程度の。


ほどよい隙のある女は男の興味をそそるようだ。

男と女が甘いときめきを感じあえる時間は短い。

体に関して、知ってしまったものはもう知らない頃には戻れない。

明らかに新鮮さにかげりが出てくるものだ。

しかし、精神はどこまでも成熟させることができるはず。

なぜなら、私が勤めていた高齢者施設には、まさしく一心同体のご夫婦がいたからだ。


出会ってときめく恋から、唯一無二の愛に変わるまで、心のキャンバスはどんな色の移り変わりをするのだろう。


~ 白 ~ フラット期

出会うまでは誰しも白いキャンバスを抱えて待ち構えている。

~ ピンク ~ ときめき期

せつない恋心と淡い期待でキャンバスは桃色一色。

~ 赤 ~ 情熱期

女であることを心でも体でも感じて、フラメンコの如く情熱の赤に染まる。

~ レインボー ~ 葛藤期

性差ゆえか、あるいは自他との感性の違いか、人間のエゴイスティックな感情に振りまわされ雑多な色に塗りつぶされる。

~ アイボリー ~ 充足期

男女であることよりもかけがえのないパートナーとして、肌触りのよい毛布にくるまれるような充足感に満たされる。


いつまでもキャンバスを赤く塗りつづけたくても、時とともに無常の風はときめきを吹き飛ばしていく。

また、煩悩に振り回されることなくアイボリーに生き急ぐことも不可能なことだ。

キャンバスは幾度も塗り固められ艶が増していかなければならない。


私のキャンバスはまだまだ、日替わりに色を塗り替えられ、ひたすらアイボリーに恋焦がれている。