こんにちは。よねひろです。
お寺で瞑想してきました。以前と同じK寺にて。
前回より多少人数が少ない感じで、でも、30人くらいいたかな。
お坊さんも違う人だったので、ローテーションで向こうもまわしてるのかな、と思いました。
やはり人が違うと説明もちがって、今回のお坊さんは話が好きらしく、寺の歴史やどうして瞑想の時間が必要なのかなどのお話をする。
曰く、「毎日生きるのは大変なことだ。働き、お金を稼ぎ、家族をやしなったり、他のルーティングワークをこなしながら、その中で、ひととき瞑想をすることによって、ふと立ち止まれると。
立ち止まる(こころを無にする=なにもかんがえない)ということで、自分というものに立ち返れる。と。![]()
もっともらしい説明だけど、なんかようわからないな。
と思う。そしたら、わたしたちって、2つあるのかな?って。
日常をこまこま過ごす自分と、静かになるとあらわれる自分と。
そして「静かな自分」のほうはひっそりしてて、たまにしか顔を出さない人(?)で、もし瞑想とかしなくて、ひっそりの方をわすれてても、生きてはいけますよね?![]()
そしてひっそりの方の意味ってなんだろう?と。
いなくても大丈夫ならべつにオプションなんだから、さよなら。でもいいし。でもそれなら、仏教のつたえている瞑想の意味事態が「どうでもいい」ことに費やされている、という風になるし。それが何百年もつづいているということは何か意味があるのか?と。
うーーん。スピリチュアル的にわたしが教わったことからひも解くと、
仏教でいう真我という、自分の核(魂)みたいなのはスピリチュアルでいう、ハイヤーセルフ(高次元の自分)で、真我は普段エゴ(自分は自分である。(たぶん俗っぽい、悩んだり心配したり笑ったり、怒ったりする私)にあふれている私だけど、実は崇高な私がかくれている。それが本当のわたし。らしい。
崇高なわたし(ハイヤーセルフ)は俗っぽいわたしより次元が高いので自分の本当の使命=人生の目的をしっているし、どうやるかもわかっている。
なので、俗っぽい私(エゴ)をなるべく黙らせて(瞑想とかして)本当の自分(ハイヤーセルフ)のか細イ声をはっきりときけるようにして耳をすませる方法が瞑想である。。。と。
でもね。それじゃあ、エゴ(普段の俗っぽい私)はまるで悪者みたいなあつかいじゃない?
ぎゃあぎゃあいいながら生きてるわたしに、失礼だと思うのよね。なんでふたをするように本当の自分というものが、隠れているのか、わからない。
瞑想して掘り出さなければいけないのかわからない。最初から真我でいりゃいいじゃん。人生の目的も使命もしってんだから。効率悪いよ。と。![]()
もし、自分の人生の使命が「○○することだ!」ってわかってたら、生きやすじゃない?悩みも迷いも多少、なくなるかもしれない
「どうやっていきていればいいかわからない」という人が多いらしいけど、それって、訳すと「自分は何のために生まれてきたのか、使命をしりたいのだ。それがわからないから、困るなー」という意味かとも思う。
みんな知りたがっている。自分の意味を。![]()