愛ある限り・鉄道趣味人として、ただ他国に呆れるだけでは済まされない。 | モデラー推理・SF作家米田淳一の公式サイト・なければ作ればいいじゃん

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 中国の鉄道事故については、私も本当に痛ましく思い、数日間言葉では中国に呆れながら、その圧倒的な愛の無さに、他国とはいえ心がかきむしられ、ねじ切れそうでいました。

 鉄道は車両や線路といった見えるものだけが鉄道の本質ではないのです。システムを設計し、車両を設計し、保守し、整備し、運転していく人間の仕事の集大成なのです。

 そこには当然愛着、愛があってしかるべきです。その現場では車両に、線路に、橋梁に、また踏切や信号にも愛が向けられるのが当然と思っていました。

 それが中国は容赦なく「くず鉄」と言い切り、データロガーが回収できたからとその愛すべき車両を重機で壊し、埋めました。日本では事故を起こした車両を裁判のための証拠品として長い間保管していたこともあります。しかしかの国はデータロガーの分析結果も出さず、安全であり信頼できると無根拠に言い張るのです。

 彼らは何を愛しているのでしょうか。彼らは金すら愛していないようです。それが彼らの『科学的社会主義』の結論なのです。科学でもなんでもないです。彼らのやり方は科学という人間の英知への冒涜でもあるのです。

 これでは犠牲になった方、怪我をなさった方、そして破損した車両も、そしてそれをまぬがれた車両も可哀想です。あまりにも愛がない。

 しかし今、日本も彼らをただ笑うことができません。日本の原発もまた「科学的」な設計、「合理的」な設計と運用で貞観地震の記録を無視しました。
 それは科学的でも合理的でもなかったのです。日本人は反省せねばなりません。

 その上、自分の主張のためなら科学も合理も差別や偏見さえも使う傲慢は反原発も原発推進派も同じ次元でしかないのです。

 原発の全電源喪失は防げるはずでした。受電設備も多重化されていましたし、非常用電源もまた多く用意されていました。しかし受電用の送電鉄塔が崩れ、送電系統も寸断され孤立し、また非常電源も竜巻対策との話もありますが、低いところに用意した結果津波で浸水し起動不能に陥りました。

 日本人は震災における原発事故について、真摯な原因究明をする必要があります。責任論とは別に、なぜこういう事態が起きたか、事前にその危険性への意見がなぜ対策に活かされなかったか検討せねばなりません。

 幸い日本はそれをしようという意志を持つものがいます。現状の事故収拾と共に、事故調査も進められています。

 それは日本人もまた、鉄道で多くの在来線鉄道事故で悲しい犠牲を出し、それでも鉄道なしには生活が成り立たない現状と向き合い、トンネル火災の事故では別の非営業線で再現実験までして原因を究明し、対策を図ってきた歴史の積み重ねがあるからです。

 列車火災事故でも車両の防火対策と乗客の脱出路確保という改善につなげました。そして多重列車衝突では防護無線という信号系統の垣根を取り払ってでも列車を安全に停止させるシステムまで作りました。事故があれば対策を施し、安全を常に追求してきました。
 そしてそれと共に、列車を、車両を、鉄道を愛してきました。

 少なくとも東電の現在の原発事故対策の人々の中には、原発を愛していながら、無責任な批判と無責任な推進に憤っていた人々もいるとい思います。もし原発が今後滅びる技術だとしても、それは事態収拾だけでなく、十分な調査と原因究明の上でなければならないのです。それが人間の文明と叡智だからです。

 ですからあの4基の炉にも、放射線の恐怖があっても、作ったもの、運転し保守してきた人々の愛があったと思います。そしてその中には無理な延齢をさせてきてすまない、人々の文化的な生活を支えてきた君を、悪魔のような存在にしてすまない、そう思う人もかならずいるはずです。

 それがあの国にはまったく根の段階からないようです。悲しいことですが、本質的に社会の中での愛のあり方が違うような気がします。

 どんなに愛惜しむように整備し設計しても、事故は起きるものです。人間は完璧ではないし、ましてどの技術も決して枯れるものではない。

 技術が枯れた、などというのはとんでもない傲慢です。レガシーなデバイスでも、他のシステムとの連携によってインシデントを起こすことはあり、それがレガシーなために中身がいつの間にか「枯れた」といいながら若い技術者がそう侮って結局ブラックボックス化しているなんてこともありうるし、いくつかその実例があるのです。

 中国の鉄道当局の姿勢は最悪、愛のない貧困な文化の極致です。かれらは文化と文明を革命で破壊したうえにまともな判断のシステムもなく他国の血と汗と叡智の結晶である高速鉄道をつまみ食いして自主技術だと言いはった。それは十分に批判されるべきです。

 しかし日本人は、その体たらくからさえも学び、叡智ある存在として中国のあの稚拙な事故からさえも学び、我々の先輩がどれだけ努力して現在の「枯れた技術」を樹立したかに思いをいたすべきです。

 そして「枯れた技術」という傲慢な概念から決別し、技術はすべて努力と知恵の結晶であること、そしてそれが放置すれば容易に「枯れていない技術」の土台を崩してしまうことがありえることを自覚すべきです。その基礎を侮った結果があの中国の高架下にまで落ちた列車の悲しい姿なのです。

 しかし日本は、彼らに呆れるだけではいけないのです。さらなる安全を追求し、事故からは常に教訓を得なければならないのです。鉄道と原子力と違うシステムのように思うかもしれませんが、原子力もまたその基礎の上に積み上げたものなのです。

 たやすくやめるとか続けるという結論を出すよりも、まず事故の収拾と同時に真相究明、事故再発防止について努力せねばならないのです。
 それが人類の、愛と知恵を持つ者の本分だと思い、そう私は信じています。


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