政権はパチンコ屋ではない。新しければいいわけではない。 | モデラー推理・SF作家米田淳一の公式サイト・なければ作ればいいじゃん

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 久しぶりに書きたくなった。
 
 まず、鳩山政権は不信任としたいのは論を待たないだろう。自分たちが「舌鋒鋭く」攻めていたことがすべてひっくり返ってブーメランになるのはいつものことである。剣をを取ったものは剣によって滅ぶ。言葉を軽々しく扱い、軽々しく批判してはそれが裏返る。それは小沢がいるいないにかかわらず、民主党の情けなさとして民主党議員は皆自覚せねばならないだろう。

 だが、それも自民党にいた人々も同じである。もともと海部元総理の「重大な決意」の不発に象徴される政治における主語の不在と修飾語の乱発は目を覆わんばかりである。「きっちり」やるといってひとつも「きっちり」できていないのは見れば見るほどである。

 しかも官から民へ、国から地方へという流れはもともと土光臨調から中曽根元総理による専売公社・国鉄・電電公社の民営化から橋本龍太郎の改革と既定路線であることはまちがいなく、大きな流れを見ればここで民主党にしろ自民党にしろ、総論賛成各論反対の次元でしかなく、その手法について文句をたれても言葉がここまで軽く、国民も、議員同士でも信頼が壊れ常識が壊れた状態では改善のしようがない。私としては永田町どころか霞が関もともに不信任である。

 ところが、私はぐっと堪える。みな信頼を失ったことは自分のほかのみながそうだと思って、実は肝心の自分が信頼を失っていることを忘れている。たとえば介護の社会化などなにかといえば社会化、公的規制がどんどんふえるということはコストが上がっていくことであり、それは相互監視ですら未だ足りずに言いがかりをつけることを仕事を中心とするとんでもない連中を生み出す。

 特に弁護士にいたっては医療過誤訴訟、借金の整理と金になればと人の弱みや感情につけ入って言いがかりのつけ放題の都市と、弁護士のいない地方と極端だし、また医療においても医療過誤問題の誤解を正さずに倫理や人権と気軽に口にして言いがかりをつけ、救急窓口をコンビニ病院的に使い、さらにせっかく無医村に来た医者を地方特有の村八分のようなことをして追い出す村もある。
 
 まさにこれらは国としてのすべての各人の信頼関係の崩壊である。警察・検察についてももう公正無謬の神話どころか、どうにでもなるとの不信感で崩壊している。

 だからこそである。大事なことを簡単に言うな、と思うし、私も暫く黙っていたのだ。

 総理を変えて、政権を変えても何も変わらないどころか悪化の一途をたどっているのは明らかである。しかしそれはもともと少子高齢化と極東情勢の合わせ技による危機状態の中でのことであり、はっきりいって、誰がやっても短い夢に終わるだろうと思う。

 故に、軽々に政治談義をしてはならない。私はその上で、あえてこうして政治について語ることを決意した。軽々ではないのである。本気なのである。

 政治家を選ぶように思っている人が多いようだが、みなあの情けない政治家は我々の鏡なのだ。そして簡単に揚げ足をとられたりとったりするのも我々の鏡なのだ。

 まず我々一人一人が、国政というものの困難さを理解すべきである。財務省も率先して誤解を招く「国家財政をサラリーマン家庭の台所にたとえれば」をやめるべきだし、また右に左にそれぞれ無定見でも勝手に引っ張れば「見えざる手」によって中道がうまれるという無責任な政治観・民主主義観は完全に捨てるべきである。

 だれかがやってくれる、なにかがよくしてくれる。いつの間にか皆そういう幻想をもち、気楽に公的規制を、気楽に原因解明を、というようになったが、公的規制をするにはお金がかかる。原因解明してもどうにももとに戻せないことは生きていればいくつもある。医療においても特にそうだ。人間は家電製品のように修理が効いたり保証書がついたりしているものではないのだ。

 この国を良くするにはなにか。まず信頼を回復するために、個々人が自己の充実をはかること、馬鹿なおしゃべりはホドホドにすることである。ちゃんと相手の立場を配慮しているか、相手を追い詰めすぎていないか、それをちゃんと考える、根本的なコミュニュケーション能力の回復と、そして自己の充実をはかるなかでの考えと行動である。

 この日本という国は、これからどうやっても悪くなる。だが、国が悪くなるとしても、我々は生きていかねばならない。そのためには適正なコンパクトさの組織や関係網を作っていくことである。それは一部は地方自治の場でもある。

 そして、軽々に誰それがかわって総理になればみたいなことを口にすべきではない。

 私は決して鳩山総理を支持しない。だが、総理の決定には従う。今は誰が舵を取ろうとも迷走しつつ着実に沈没しつつある日本という船は大逆転は無理だ。だとしたら、少しずつ、冷静にもっとコンパクトな救命艇を少しずつ作ることが大事なのだ。だから私は現在、地方自治に興味をもつのである。

 せめて総理を3年変えなければ、それだけで有能だったはずの官僚も地方行政もチームワークよく働いて解決出来ることが多いという人もいる。でもそれは一部当たっていると思う。馬鹿げたおしゃべりと馬鹿げた引っ張り合いではなく、責任を持った個々人が充実をはかって、それを適正にコンパクトなシステムとして機能させていくこと。我々はそこまで一度後退せねばならないと思う。そしてなんとか新党とかの老人どもの馬鹿騒ぎに巻き込まれてはならない。我々と、我々の先輩で、そのシステムを作り、信頼を再構築すべきなのである。

 現在非常にいろいろな技術が進んでいるが、それに浮気をしている場合ではない。技術は技術者の仕事であるが、我々にいるのはその中身、コンテンツを充実させることである。充実したコンテンツからは各メディアに展開できるが、技法に耽溺していてはコンテンツの大事な中心を見失う。

 その中心を私なりに定めた上で、いう。情けない政治家しかいないが、我々が情けないのだから仕方が無い。でも、我々は、信頼をつなぎ直すことで、よみがえることが出来るのだ。

 私はそう信念を定めたのである。


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